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2014年4月

2014年4月26日 (土)

「安全保障上の進展」「安全保障上の成果」とは、弱者を心理的になだめながら/慰めながら、物理的に切り捨ててゆくプロパガンダに過ぎない。

いやいやながら、『朝日新聞』なる、俗悪にして保身的な新聞をコンビニで購入してみた。(4/26付、地方版)

タイトルに示したような、共同声明発表後の日米政府の思惑を俗悪にして巧妙なプロパガンダに変換してみせる典型的な御用新聞にほかなるまいからだ。

読んでみると、予想通り2面に『時時刻刻」なる、この新聞がプロバガンダにリアリティーを与える際に多用する手法による特集記事があった。
この新聞のやり方は、読売や産経など、御用は御用でも、直情型のチンピラが読むに相応しいものよりも、隠微で巧妙という意味では、より伝統的で保守的な日本政府のやり方に親和的とみなせる。
大見出しからして、実に分かりやすい卑劣と卑屈が充満している。
『経済・安保 成果に明暗』だって。
本当にいやらしい。
リード文を読むなら、次の通りだ。
(以下、『』内は引用文)
『安倍慎三首相とオバマ米大統領の首脳会談は、経済と安全保障で明暗が分かれた。環太平洋経済連携協定(TPP)では、両首脳がアジア経済のルール作りを日米が主導するという目的では一致していたが、それぞれの国内事情が最後の妥協を許さなかった。一方、安全保障では中国や北朝鮮の脅威に結束して対抗することで足並みをそろえた。』
何かのお笑いグループの決め文句ではないが、本来なら「聞いてないよ」という話なのだが、表面的な喧騒としての「決まらない決まらない」という反復表現をカモフラージュにしながら、私たちが同意した覚えのない「土俵」の形成は既になされてしまっていることが示唆されている。
最も本質的な「論点」が、ア・プリオリのものとされて、やれ「豚肉」だ「自動車だ」という個別品目が、点滅する警告灯のような目眩ましとして用いられている。
いったい、TPP交渉において『アジア経済のルール作りを日米が主導する』ことを目的とするなどと、いつ決定されていたというのか。
『日経新聞』なる訳の分からない経済紙の論調もまったく同様である点も実にいやらしい。
この新聞は、わざわざ社説欄を用いて『TPPは「日米主導」ではなかったのか』なる意味不明の文章を掲載している。
あたかも、「過去に固い約束、ゆるぎない契りを結んだはずなのに一体どうしちゃったんだ?」という言い方である。
「聞いてないなぁ」…そう言わざるを得ない。
思想問題を個別問題に矮小化し、個別問題で大騒ぎを繰り返しながら、思想問題については解決済み、決着済みのように装う論理の用方は、プロバガンダ(政治宣伝・政治洗脳)の手法以外のなにものでもなかろうに。
私たちは、テレビから新聞まで各媒体が素知らぬ顔をしながら一致結束して流布してみせるこうした「官僚話法」、「マススピーチ」とでも言うべき姑息な方法にこそ敏感でなければならなかったはずだ。
だが、「マススピーチ」は、一定方向を指し示すベクトルの尻尾の部分は既に「過去」の中に埋没し動かしがたいものになっているものとして扱ってみせる。
『日経』社説などは、ご親切にも「TPPの要諦」なるものを次のように定義付け、教育的機能まで果たそうとしてくださる。
いわく、『TPPの要諦は、現行の世界貿易機関(WTO)協定では十分に扱えない新しい通商問題に対応するために、次世代の貿易・投資のルールを築く点にある』ものなのだそうだ。

「聞いてないよ」……

「なぁ、みんな、知ってた?TPPってさ、そういう目的があるんだってよ」
「聞いてないよ」
「え?TPPって関税問題じゃなかったの?」
「そういう側面もあるって話なんじゃない?」
「聞いてないよ」
「お前、そんなこと言ってたら、それはお前が無知なだけだってバカにされちゃうよ?」
「でも、聞いてないものは聞いてないよ」

こんなふうにザワザワし始める私たち切り捨てられるべき大衆を慰め、なだめるためにペアで用意されるものと言えば、安全保障問題だとだいたい相場は端から決まっている。

「我々、日米政府は、我々が経済的には切り捨てるキミタチ庶民が、せめて敵対国からは蔑ろにはされないよう配慮してやるのだから、有り難いと思え。そして、有り難いと思うなら、我々がキミタチから搾取する富については、あまり大騒ぎをするな」

これが、「安全保障問題の進展」や「発展」の内実であり、メッセージとみるべきなのだ。
つまり、「弱者切り捨て(搾取)政策」と「安全保障問題の進展」は、いつでもペアになって、私たちにもたらされるというわけだ。

こういうものをいかにも「国民のための努力」であるかのように取り繕ってみせるのが、「マススピーチ」の形成役を担う「悪徳ペンタゴン」の一画たる「マスコミ」の役割なのである。

肝心の「土俵作り」は、私たちの見えないところでいつの間にか確実に/シナリオに沿って/スケジュール的に行われるのであり、私たちが木戸銭を支払い、わくわくしながら観戦する土俵上の闘いは、フェイクであることが多いのは、現実の「大相撲」からも得られやすいいかにも分かりやすい教訓だったのにも関わらず、喉元過ぎればなんとやらで、私たちはいつでも体よく騙されては、後になってから臍を噛む。
今までもそうだったし、これからもそうなのだろう。
「同様の価値観」とやらを共有し続ける限りにおいて、それは変わらない。

本来なら、
「力による変更」が許されないのと同様に「騙しによる変更」も許されないはずなのだ、本来ならば。

だが、率先して騙されてくれる人々が多数を占める限り、今後もこのようなやり方が主流を占めていくんだろう。

「シナリオ思考」において、物語の「結末」はいつでもあらかじめ決定づけられている。
あらかじめ決定づけられた「結末」に向かってエキストラとして動員させられるのが、バカ面さらした私たちというわけだ。

こういう陳腐な手法が、いつまでも続くはずもないと思いたいが、「現実を見る」ことよりも「自己愛が満たされる」ことに快を覚える者が多数を占める限り、しばらくこのような“パラダイム”が継続されるしかないのだろう。

まさに、「辛い現実」であり、このような「現実」を直視しながら生きることの意味を考えることに、本当は、潜在的に莫大な社会的需要が眠っているはずなのだけれども、
……まぁ、いいか。めんどくさい。

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2014年4月24日 (木)

アーミテージ様やグリーン様、あるいはナイ様あたりに“直言”してもらわなければ、何も言えなくなった日本のマスジャーナリズム

(附記4/25:日本政府の集団的自衛権の行使容認の検討について、来日したオバマ米大統領が歓迎の意向を示したとの報道がなされている。以下にも記した通り、共和党に近いジャパンハンドラーズの重鎮、リチャード・アーミテージが慎重な姿勢を示しているのと好対照を成している。ここには、何らかの罠もしくはバーターが潜んでいるとみるべきだろう。具体的にすぐ思い付くのは、TPP交渉とのバーターだ。安倍やその周辺の自己愛や好戦的野心を満たすために、そのような取引が行われたとすれば、これは、米国人にとって悪い話ではなく、日本人にとっては最悪の状況だ。アーミテージの認識の方がより正しいと言わなければならない事態に陥るとは思わなかったが、ジャパンハンドラーズとオバマ政権とのこの捻れの内には、何らかの罠が仕掛けられているような気がしてならない。安倍はオバマに借りを作ることにもなるが、何を考えているのか、さっぱり分からない。TPP交渉はまだ妥結していない。日本マスコミの公式的/形式的発表は一切信用できない。その上で、以下の意見も変えるつもりはない)


先日は、ナイ様(ジョセフ・ナイ)の発言を「朝日新聞」とかいう日本の新聞がわざわざ1面に掲載して、一部で話題になっていたようだが、
アーミテージ様ともなると、オバマ大統領来日前に、あらかじめ日本に滞在し、米日両政府の事務方を中心に「ジャパンハンドラーズ」の“お考え”を浸透させるため、活発な活動を展開するもののようだ。
先日から各種日本のメディアでアーミテージ様の発言が頻繁に取り上げられているようだが、今日(4/24)、たまたま目にした「日本経済新聞」なる新聞にも、折良く(?)アーミテージ様のインタビュー記事が掲載されていたので読んでみた。

先日から、「ジャパンハンドラーズ」の政策転換として、一部で話題にはなっていたようだが、それを裏付けるような形で、当該記事にも次のような箇所があった。

(以下、引用)
Q:安倍政権が集団的自衛権の行使容認作業を急ぐ背景には、米国のアジア重視を確固たるものにしたい、という戦略的な狙いもある。
A:集団的自衛権に関する(行使容認の)決断を先延ばしにすることがあっても、それは日本の決断だ。我々がこの同盟を続けることに変わりはない。日本にとって今、最も重要なことは、経済を回復させることだ。
(引用、終了)

いかにもポリティシャン風の遠回しのイヤな言い方だが、率直な言い方に直せば、「日本は集団的自衛権に関する決断に前のめりになるよりも、経済を回復させるために政治的資源を集中させるべきだ」と言っていることになる。

これが何を意味しているのかと言えば、たとえば私のような者とアーミテージ様の意見とが(その一点においては)一致しなければならないほど、安倍慎三とその周辺には信用も政治的な才能も理性も皆無であるとみなされているというよりほかない。
特に、首相が安倍慎三という“ああいう”人物であるがゆえに、ここはオレサマの出番だとばかり、しゃしゃり出てくるタチの悪い連中の顔ぶれを見れば、こういう面々に「政治の延長としての軍事(や軍事に関わる言論)」であるはずのものを、幼児の玩具のように扱われたのでは、大変なことになりかねないという危惧が、「ジャパンハンドラーズ」のみならず世界の大部分に共有されても致し方がないと言っておくべきだろう。
今、日本で、集団的自衛権の問題に口を出しているような連中は、その肩書き如何に関わらず、「法」や「外交」や「軍事」などといった、切れば血も出るし撃たれれば死にもする生身の人間にとって切実な議論に、絶対に関わらせてはならないタイプの者たちばかりなのである。
安倍政権になった途端、突然、声のでかくなった者たち……この連中こそ、米国のみならず、世界になくもがなの危害を与えかねない危険な連中なのであり、ある意味、彼らは見事に炙り出され自らの墓穴を掘っている真っ最中なのだとも言える。
お人好し日本庶民が、未だにこういう連中について、日本のことを思って発言してくれているのだといった妙な幻想の中にあることをジャパンハンドラーズも熟知しているがゆえに、頭ごなしの言い方は控えているのだろうが、
ジャパンハンドラーズの本音を勝手に忖度させてもらえば、
小沢一郎を我々と一緒になって嬉々として排除してみせたお前ら日本人に、もはや選択の余地など一切残されてはいないのだ、
というところになるのだろう。
「自分の仕えるべき主人を見誤るような愚かなお前たちには、現実というものを思い知らせてやる」
そのくらいのことは思っているかも知れない。

そういえば、アーミテージ様は、小沢のもとを離れジャパンハンドラーズの軍門に下った石破ナントカを呼びつけて、新聞にあるような説教をしてみせたというではないか。
「お前たちは、中国に口実を与えるような利敵行為を続けるつもりか?」
「お前たちは、日韓で仲違いをしてみせ、我々をいらつかせるつもりか?」
表現は婉曲的であっても、率直に言えばそのような説教をしたはずである。

そういう説教を許してしまうようなネトウヨレベルの愚かな行動しか取れない我が国政府の政治レベルというものこそ痛々しい。

インタビュアーの質問を再掲してみよう。
「安倍政権が集団的自衛権の行使容認作業を急ぐ背景には、米国のアジア重視を確固たるものにしたい、という戦略的な狙いもある」

インタビュアーにケチをつけても詮もないことだが、それでもそんなものが「戦略的な狙い」になり得るのなら、この世から「戦略的な狙い」などというものは消え失せたも同然と言って良いだろう。

「キミたちは、ふざけているのか?それとも、もはや正気ではなくなっているのか?」

ジャパンハンドラーズのみならず、諸外国のいわゆる知日派の口から出かかっているのは、本当はそういう疑問の声なのかも知れない。

3.11以降というもの、同じ日本人でありながら、日本の支配層、指導層が言ったり為したりしていることに対する違和感というものは、もうどうにもたとえようのないものになっている。

恥も外聞もなく、首相と“OFF会”を繰り返してやまないマスメディアの幹部連中。
恥も外聞もなく、戦前の亡霊を今に蘇らせようと、それこそ加持祈祷でも連日しているかのような“識者”連中。
少なくとも、そこには、知性も理性も一切働く余地はなく、欲にまみれた思惑や保身にまみれた防衛本能や今にもひきつけを起こしそうな自己愛中毒などが、ただ闇雲に飛び交うばかりなのは容易に想像がつく。
「非知性主義の磁場」に足許を固められた、あるいはすくわれた人間というものは、かくも脆く、かくも卑しく、かくもみっともない。

あきれ果てるような現実の中で、今日も時間だけが過ぎてゆき、今、日本で最も確実な事象は、「溜まり続ける汚染水」、ただそれだけになっている。
その汚染水を入れる一見巨大なタンクも、寿命はわずか5年程度だというではないか。
「いったい、キミたちはふざけているのか?それとも、もはや正気を失っているのか?」

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2014年4月12日 (土)

「生命科学」と「生命工学」(STAP細胞という発想において提起されている可能性)

先日の土曜日だったか、『日経新聞』なる、日本で何故か唯一の日刊経済紙を読んでいたところ、最終面に福岡伸一の連載コラムが掲載されていた。
私は、『日経新聞』とかいう新聞の熱心な読者ではないので、福岡の連載に都度目を通しているわけではないが、そのコラムは、(人間の手による)設計物と生物を対比する内容になっており、いわば福岡らしい読み物となっていた。
中に、次のような箇所があったので、引用(コピペ)させていただく。

(引用開始)
まず中心軸があり、そこから部分が派生する。設計的な思考法だが、実は魚に限らず生物の背骨は、設計者によって最初に引かれた訳ではない。逆である。もともと生物には中心軸などなかった。細胞の塊が押し合いへし合いしているうちに、左右から真ん中に押し込められた襞として背骨ができ、それがさらに前に押し出されて脳ができた。生物にとって中央はあとから、発生的に作り出された。
(引用終わり)

柄谷行人の特徴的思考に、起源へと遡上する考察と、起源の隠蔽に関する鋭い感性とがいわば〈動的な平衡〉として存在していることを指摘することができ、それが常に読む者を刺激してやまないスリリングな論考として結実するのだが、福岡がここで指摘しているのも人間が常に隠蔽したがっている中心/中央の後発性(後付け性)であり、生命の非設計的な成り立ちである。
だが、この〈非設計性〉に見えるものは、人間にとっての〈設計的思考〉からはそう見えるだけであり、福岡の提唱する〈動的平衡〉という概念から見れば、〈非設計的なゆらぎ〉こそが動的な秩序を生み出す不可逆的なプロセスだということになるのだろう。

今、私の手元には『生命論パラダイムの時代』(ダイヤモンド社)という本がある。
イリヤ・プリゴジンの切り開いた知の潮流を中心として、日本の第一線の学者らが集い、プリゴジン本人も招いたシンポジウム等を記録した本だが、114〜115ページに記された『イリヤ・プリゴジンと生命論パラダイム』と題されたNOTEの記述は、簡潔かつ的確なまとめとなっているので、ここに引用しておきたい。

(以下、引用。ただし、より分かりやすくするために、一部省略しながら、Q&Aの形で記載する)

Q:この世界(宇宙)は果たして「混沌」に向かっているのか?それとも「秩序」に向かっているのか?

A:「熱力学第2法則」に従うならば、この宇宙は、究極の「熱死」(HeatDeath)へと向かっている。この法則に従えば、世界(宇宙)は、いつの日か、エントロピーが最大となり、どこも均一な温度の状態となり、すべての運動が終わり、すべてが終末を迎える。

Q:しかし、それでは「生命」とは何なのか?生命とは、この熱力学の第2法則に抗して構造を築き、秩序を維持し、恒常性と安定性を保ってゆく存在ではないか?なぜ、それが可能なのか?

A:外部環境に対して開放されたシステムにおいて、外部環境との間で大きなエネルギーの流れが存在するとき、このエネルギーの流れに伴ってシステム内の秩序と構造に「ゆらぎ」が生じ、この「ゆらぎ」を強化するプロセスが存在するとき、システムは混沌に向かうのでなく、自己組織化を起こして、より複雑な秩序と構造を形成する。
外部環境に対してエネルギーを「散逸」させながら自己組織化を遂げてゆく非平衡構造が「散逸構造」であり、これこそが「生命」の発生と進化の「謎」を解くカギである。

Q:「生命」がそのようなものだとしたら、「生命」の本質とは、ホメオスタシスによる恒常性維持であり、ネガティブ・フィードバックによる安定性維持ではないのか。
そうであるならば、なぜ、恒常性と安定性に反する「進化」が生じるのか?

A:「進化」とは、既存のシステムににおける「ゆらぎ」が、ある限界以上に増大し、既存のシステムの恒常性と安定性が維持できなくなった時、新たなる「構造」と「秩序」へと移行するプロセスであり、それは、より高次のレベルでの恒常性と安定性への移行にほかならない。
(引用終了)


私が「STAP細胞」すなわち「刺激惹起性多能性獲得細胞」という発想に聞き及んだ時に、思い出されたのが、プリゴジンの「散逸構造理論」に基づく生命論だった。
福岡の「動的平衡」という概念も、プリゴジンの生命論から敷衍したものであろうが、分化することによって相当程度まで平衡状態に近付いた細胞を持続的な刺激環境としての非平衡状態に再び置き直した時に、何らかの再生プロセスが発動するというのは、発想として有りなのではないかと、もちろん、素人の直観に過ぎないが思った。
自然のフラクタル次元というものを考慮に入れた場合、単細胞において生じることも、多細胞システムにおいて生じることも相似形であるとみれば、
多細胞システムとしての人間(人体)が、「訓練=持続的刺激」によって、例えば42.195kmを走りきることの出来る身体を作り上げることが可能だったり、あるいはパラリンピックの選手に見られるような、失った身体の一部に人工物を接続することにより、いわゆる五体満足の人間より優れた能力を発揮するといった「進化」の諸相(もちろん、この場合は、形質変化が生じているわけではないので、比喩的な段階にとどまるのではあるが、遺伝的な追跡調査を精密に行えば、一世代の個体の“努力”が次世代以降の形質に反映されることはないとは証明されていないだろう)は、単細胞においても、一見「初期化」の形を取りながら、プリゴジンの言う、より高次レベルでの恒常性と安定性に向けて変成するということが有り得るのではないかと夢想した。
少なくとも、「STAP細胞」という発想は、生命論に若干の関心を持つ素人にも、それだけの夢を見させてくれるアイデアであることは間違いない。
「STAP細胞」というものが、本当に生成可能なのかどうか、仮説の段階に再び入ったのだとしても、単に「生命工学」の領域ではない「生命科学」「生命論」の発展にとって、大きな可能性を秘めていると言うべきではなかろうか。
それは、人為的・工学的な設計思想から離れていることによって、むしろ、未来性のある、未来を引き寄せる可能性を秘めていると言って良いのではなかろうか。

プリゴジンは、前掲書に掲載された基調講演の中で、生命(非平衡物質)の「進化」について、次のように述べており、専門家でない者や、私のように基礎知識が不足している者にも分かりやすい。

(引用開始)
新しい性質を獲得した非平衡物質は、どのようにして「進化」するのかです。非平衡物質はどのようにして状態を変化させていくのかです。(一部略)
ここで留意するべきことは、非平衡というのは非線形と関係するということです。平衡から遠く離れた状態においては、系を記述する方程式は非線形方程式となり、複数の解を持つからです。平衡に近い状態においては、唯一の解しかありません。これが「熱力学的分岐」と呼ばれるものです。しかし、平衡から遠く離れていくと、多くの解が出現してきます。そして全く新しい状態が現れてくるのです。
私が若いころ、人々は「数学的な問題には解は一つしかない」と信じていました。しかしながら、いまでは、平衡状態から遠く離れた状態においては解は多数存在することが明らかになっています。そして、こうした解は「分岐点」において現れるのです。すなわち、平衡状態においては一つの解が現れるのですが、系に擾乱を与え、系の制御変数を変え、系の境界条件を変えるならば、分岐点において新しい解が現れるのです。
(中略)
一般に「平均的挙動」と「ゆらぎ」の間には相違があります。まず、巨視的な物理学においては平均的な挙動が重要になります。これに対して、ゆらぎは小さな影響しか持ちません。大きな系においては、ゆらぎというものはあまり大きな役割を果たさないのです。しかし、分岐点に近いところでは、ゆらぎというものは支配的な役割を果たすようになります。通常、ゆらぎというものは平均的法則の副産物ですが、分岐の近くにおいては、逆にゆらぎが支配的になるのです。この領域において、巨視的な挙動はゆらぎから生じており、ゆらぎは本質的な要素となるのです。
(引用終了)

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2014年4月10日 (木)

「調査捕鯨」裁判で示された我が国の(形式上の)エリートによる「のび太シンドローム」の症例

私が「のび太シンドローム」と呼んでいるのは、医学的に見れば「自己愛性パーソナリティ障害」の類型に入るものだろうが、個々人として観察すれば「障害」とまでは言えないものの、そういう心性に傾いた個々人が同調的共振作用を起こし、それが社会や共同体に集合(無意識)的な作用を及ぼせば、深刻な悪影響をもたらすような、いわば集団的な症候を指すものである。

外務省(という、これまで日本の国益に一度も寄与した実績がないのではないかと疑われる省)の関係者によれば、
国際司法裁判所における日本の調査捕鯨に関する裁判には、「負ける要素のない万全の態勢で」臨んだらしい。
報道によれば、彼らが「負ける要素がない」と判断した理由は以下のようなものだ。
①交渉の前線に立ったのは、TPPの主席交渉官も務めるエースの鶴岡公二内閣審議官(外務省出身)であること。
②法律顧問の弁護士に英国やフランスの世界的権威を雇ったこと。
③代表団には、同じ捕鯨国であるノルウェーの科学者も加わったこと。
これら、人的側面に加え、基本的な法解釈として
④そもそも国際捕鯨取締条約の第8条で「調査捕鯨」は認められている。
⑤捕獲後の鯨肉の処分方法については規定がない。(つまり、調査後の鯨肉を食用に用いたとしても規定には触れない。)

以上のような根拠から、「負ける要素がない」、仮に注文が付けられたとしても捕獲量の問題ぐらいだろうとして、自信をもって臨んでいたらしい。

恐ろしいのは、この“自信”である。
日本の(形式上の)エリート層は、上に挙げたような“権威”や“形式(論理)”、また、甚だ心許ない“お仲間意識”等を“根拠”として、それに“自信”を抱くことが出来たらしいのである。
私たちが(形式上の)エリートとし送り出している人々の、本質的に見れば「自己愛」でしかない「自信」のもたらすものが、日本社会に凶器として跳ね返って来る事……恐ろしいのはこの事であり、同構造の事例は、日清・日露の勝利以降、この国の(形式上の)エリートの陥った陥穽から、絶え間なく、あたかも間欠泉のように噴き出して来るものである。
彼ら(形式上の)エリートは、日本国内に向けては、「日本の鯨食文化」を守護する尖兵のように振る舞って見せ、そのように認識しろと、国内に流通する情報を差配する。
権威主義とそれによって来たる従順さだけが取り柄の内地の日本人は、自分はもう何十年も鯨肉など口にしたことがなくても、「日本の食文化」をエリート様方が守って下さるのだと信じ込み、今回のようにエリート様方が敗北したともなると、(圧倒的実力を保持しているのが明らかだったスキージャンプの女子選手が敗北したかのように)、「まさかの敗北」「日本文化への無理解」さらには「日本文化に対する偏見」などとうち騒いでみせるのだ。
だが、残念なことに、私たちが私たちの利益のために選出しているはずの(形式上の)エリート様方は、スキージャンプの女子選手のように圧倒的実力の保持者でも何でもなければ、肝心な情報についてはいつでも自国民には伏せた上で「ええかっこしい」だけは巧みにしてみせる人種だということだ。
今回の事例で言えば、今日の「鯨食」をめぐる実態とは、実際には聞き捨てならない段階にまで腐敗しているのである。
『オッカムの剃刀 続』というブログがこれについては端的に纏められているので引用させていただく。

(引用開始)
水産庁の外郭団体である日本鯨類研究所は、調査捕鯨と称して毎年6億円ほどの税金を費やし、セミクジラに偏って1,000頭も捕獲、鯨肉をさばいて50億円ほど売り上げて国庫にも戻さない、という事業を行っていた。どうみても調査捕鯨ではなくて官製捕鯨ビジネスである。敗訴も当然だし、震災復興資金を調査捕鯨に横流ししていた件も含め、日本国内で訴訟されてもおかしくなかった。
(引用終了)

鯨肉を学校給食に提供しているなどといった日本の食文化を守るという類いの情緒的な“美談”で、簡単にたぶらかされてしまう私たちは、震災復興予算まで流用していた調査捕鯨の実態についてどれだけの情報を有していたことだろうか。
引用させていただいたブログ主の関心も、マスコミ報道の異常さの一例として述べられているものだが、私たちが置かれている情報環境とは一事が万事こういう有り様なのであり、ネットはネットで、「マスコミは反日だ」などという見当違いも甚だしいネトウヨとかいう連中が、ますますマスコミを萎縮させる方向で大活躍されているという“勇ましい”状況なのだ。
「のび太シンドローム」とは、このように、健全な批判・批評をも「自虐」だの「反日」だのと形容し連呼することによって亢進していくのであり、「根拠なき自己愛」が熱狂的に受け入れられて行く素地を徒らに形成していく。
自らに関する「不都合な事実」からも「不都合な真実」からも逃げ回り、「自己愛」に偏した情報だけを受け入れるような脆弱で虚弱な心性の者が増殖することは、(形式上の)エリート諸氏にとっては願ってもないことだろう。
「自己愛」を否定、いや否定せずとも健全な形で批評/反省/内省した上で、やみくもな「自己愛」を昇華するという、いわば、“大人”になりたくない者たちは、その「幼稚な自己愛」を維持するためには、国内の権威を相対化しようとする契機を失い、ひたすら権威に対して従順にならざるを得ない。
(形式上の)エリート諸氏は、あたかもオリンピック選手であるかのように彼らに対して振る舞って見せれば、彼らの熱狂的なサポートが期待できるという寸法だ。
さすがに本物のエリートは、このような手段に手を染めはしない。まさに沽券に関わるから。
だが、欺瞞の鎧に身を固めた似非エリート(形式上のみのエリート)らは、恥も外聞もなくこのような手法を採用する。
ナショナリズムを焚き付けておいて、自分は彼らの担ぐ御輿に何食わぬ顔をしていつの間にか乗っかっている……最も容易で安直な方法にほかなるまい。
見境もなく、このようなことが出来る恥ずかしい人々……思わず顔を背けたくなるそんな恥ずかしい人々が、日本の支配的表層で目立ち始めているのは、端的にこの国の(エリート層をも包括した上での)民度の指標とみなすべきと言うしかない。

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2014年4月 2日 (水)

日本官僚が日本人向けに用いる内閉的“定向劣化”言語は、世界に見透かされ蔑まれている。

オーストラリアが日本の“調査捕鯨”の差し止めを国際司法裁判所(ICJ)に求めた訴訟で、国際司法裁は31日、日本側の全面敗訴の判決を下したとのこと。
毎日新聞なる日本の新聞社の報道によれば、関係者のコメントは次のようだ。

(以下、コメント部分、引用)

鶴岡公二:日本政府代表
「残念であり、深く失望した。しかしながら、日本は国際法秩序や法の支配を重視する国家として判決には従う」

キャンベル:豪州代表
「問題解決の場として国際司法裁は適切だった」

リベリンク上席研究員(国際法):アッサー研究所(ハーグ)
「予想以上に厳しい判決を下した。科学調査といいながら研究成果が乏しく、なぜ、何のために、いつまでやるのか、透明性、明確性が欠けていたことが敗因」

ラメージ捕鯨問題担当局長:(捕鯨反対の市民団体)IFAW(米国)
「商業捕鯨を存続させるため官僚が立てた複雑な理屈が国際社会では通じなかった」

一読すれば、あまりにも明らかな通り、日本と丁度同等の民度によって互いが互いを感情的・情緒的に非難し合うアジア諸国が相手だったならまだしも、(まがりなりにも白豪主義を自ら克服してみせた)豪州によって国際司法裁判所にまで持ち込まれてしまったことにより、日本官僚がお人好し日本国民相手に用いて体の良い誤魔化しだけに利用している欺瞞概念は、一切通用しなかったというのが実態だろう。
恥を知れと言いたい。
無能丸出しの劣化日本官僚のコメントをもう一度反芻してみよう。
「残念であり、深く失望した。しかしながら、日本は国際法秩序や法の支配を重視する国家として判決には従う」
どう「残念」であり、何に「失望した」のか?
日本の無能官僚というのは、もう少し国民にも内実が伝わるようなコメントができないのだろうか。
何ゆえにこうまで無能なのか、理解に苦しむ。
そもそも日本の官僚という特殊な世界でしか生きたことのない特殊無能は、知性レベルが低過ぎて何故日本が敗訴したのかさえ全く理解できていない可能性さえある。
日本は、「国際法秩序や法の支配を重視する国家」かどうか、疑わしい面があるがゆえに敗訴したのである。そうでなければ敗訴などしていない。
そして、判決を受け入れるのは、これ以上やっても論理的に勝てる見込みがないからにほかなるまい。けっして、「国際法秩序や法の支配を重視する国家」だからではあるまい。論理的な因果関係が完全に逆転している。
日本の無能官僚というのは、自分たちの無能を糊塗するために平気でこのような嘘をつき、そして、その嘘も既に見透かされているのである。
あるいは、自分のついている嘘が、嘘とは思えなくなるほど、自己洗脳すらしてしまうのが、日本の官僚という特殊無能集団なのである。
自己洗脳とは、すなわち、自家中毒にほかならない。
彼らは、自分たちが用いる内閉的“定向劣化”言語に、自分たちから率先して酔いしれ、現実のレベルにおける所期の目的も意義も喪失していくのだ。
今度、政府が突然使い始めた「防衛装備移転」なる用語も同じことだろう。
一定のリアリズムが機能している場なら、このような「思い付き」は一笑に付され、相手にすらされないはずなのである。
にもかかわらず、内閉的“定向劣化”言語に浸って、現実と妄想の境界が曖昧になった異様な場を日常とする特殊無能らは、「防衛装備移転」などという用語を捻り出したことが、何か気の利いた成果か何かのように認識されてしまうのである。
そして、てらいもなくそれを現実の場に持ち出す。
本来なら、こういうジャーゴン紛いの言葉は一切相手にしなければ良いだけだ。
一切相手にせず、意味内容が不明だから、まず、語の意味内容を明らかにせよと突き返せば良いのだ。
だが、お人好し国民を代表する我が国のヘタレマスジャーナリズムは、愚かなことに、おかしな言葉を、何か立派な「用語」か何かのように扱ってみせるのだ。
「用語」でも何でもない。単に無能で頭がおかしいというだけに過ぎまいに。
しかし、そういうものを、いったん相手にし始めてしまった時点で、ある種の〈共犯関係〉が成立してしまうのだ。
いつでもそうだ、この国は。
だが、こういう無内容な内閉的“定向劣化”言語を、国際社会は、自らの利益にならない限りは好意的には扱ってくれない、当然のことだろう。
日本の無能官僚が、「これは調査捕鯨だ、 科学的調査だ」とどれだけ連呼しようとどうしようと、内実がともなわなければ嘲笑われ蔑まれるだけだ、当然のことだろう。
「何が調査捕鯨だ、ふざけるのも大概にしておけ」と、まともな裁判なら心証を害する以上の何の効果も有しない。
要するに、まるで相手にされていないのである。
「防衛装備移転」なる言葉もそうだ。
「へぇ、そんな言葉で、貴国の国内世論がおさまるのなら、それで宜しいんじゃないですか?」と、冷笑されながら受け入れられるだけだ。感心されるわけでもなければ、当然のこと、感謝されるはずもない。
「我々が少しプレッシャーをかけたら、日本のバカ官僚どもは、また、訳の分からない“用語”をひねり出しやがった。まぁ、日本国内のことなど我々の知ったことではないからして。我々の国益に資することであれば、何でもやらせるまでさ」
まぁ、こんなところだろう。これが、恐らく限りなく実態に近い。

かくして、いざという時には、必ず敗北するはめになる。
用いている論理が、ことの始めから、欺瞞以外のなにものでもないのだから。まともに相手にされるはずもない。
日本国内でしか通用しない内閉的“定向劣化”言語の氾濫。
思わず“ガラパゴス言論”という比喩を用いたくなるが、安易な比喩に頼り過ぎるのは良くないだろう。
内閉的“定向劣化”言語、そういう言語が氾濫する天国、それが日本という国であるということを直視すること。そして、これは、けっして日本語の責任ではない。
日本に生きる私たちの生き方の問題であり、そこから派生してくる問題の一端に過ぎないものだ。

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