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2014年4月12日 (土)

「生命科学」と「生命工学」(STAP細胞という発想において提起されている可能性)

先日の土曜日だったか、『日経新聞』なる、日本で何故か唯一の日刊経済紙を読んでいたところ、最終面に福岡伸一の連載コラムが掲載されていた。
私は、『日経新聞』とかいう新聞の熱心な読者ではないので、福岡の連載に都度目を通しているわけではないが、そのコラムは、(人間の手による)設計物と生物を対比する内容になっており、いわば福岡らしい読み物となっていた。
中に、次のような箇所があったので、引用(コピペ)させていただく。

(引用開始)
まず中心軸があり、そこから部分が派生する。設計的な思考法だが、実は魚に限らず生物の背骨は、設計者によって最初に引かれた訳ではない。逆である。もともと生物には中心軸などなかった。細胞の塊が押し合いへし合いしているうちに、左右から真ん中に押し込められた襞として背骨ができ、それがさらに前に押し出されて脳ができた。生物にとって中央はあとから、発生的に作り出された。
(引用終わり)

柄谷行人の特徴的思考に、起源へと遡上する考察と、起源の隠蔽に関する鋭い感性とがいわば〈動的な平衡〉として存在していることを指摘することができ、それが常に読む者を刺激してやまないスリリングな論考として結実するのだが、福岡がここで指摘しているのも人間が常に隠蔽したがっている中心/中央の後発性(後付け性)であり、生命の非設計的な成り立ちである。
だが、この〈非設計性〉に見えるものは、人間にとっての〈設計的思考〉からはそう見えるだけであり、福岡の提唱する〈動的平衡〉という概念から見れば、〈非設計的なゆらぎ〉こそが動的な秩序を生み出す不可逆的なプロセスだということになるのだろう。

今、私の手元には『生命論パラダイムの時代』(ダイヤモンド社)という本がある。
イリヤ・プリゴジンの切り開いた知の潮流を中心として、日本の第一線の学者らが集い、プリゴジン本人も招いたシンポジウム等を記録した本だが、114〜115ページに記された『イリヤ・プリゴジンと生命論パラダイム』と題されたNOTEの記述は、簡潔かつ的確なまとめとなっているので、ここに引用しておきたい。

(以下、引用。ただし、より分かりやすくするために、一部省略しながら、Q&Aの形で記載する)

Q:この世界(宇宙)は果たして「混沌」に向かっているのか?それとも「秩序」に向かっているのか?

A:「熱力学第2法則」に従うならば、この宇宙は、究極の「熱死」(HeatDeath)へと向かっている。この法則に従えば、世界(宇宙)は、いつの日か、エントロピーが最大となり、どこも均一な温度の状態となり、すべての運動が終わり、すべてが終末を迎える。

Q:しかし、それでは「生命」とは何なのか?生命とは、この熱力学の第2法則に抗して構造を築き、秩序を維持し、恒常性と安定性を保ってゆく存在ではないか?なぜ、それが可能なのか?

A:外部環境に対して開放されたシステムにおいて、外部環境との間で大きなエネルギーの流れが存在するとき、このエネルギーの流れに伴ってシステム内の秩序と構造に「ゆらぎ」が生じ、この「ゆらぎ」を強化するプロセスが存在するとき、システムは混沌に向かうのでなく、自己組織化を起こして、より複雑な秩序と構造を形成する。
外部環境に対してエネルギーを「散逸」させながら自己組織化を遂げてゆく非平衡構造が「散逸構造」であり、これこそが「生命」の発生と進化の「謎」を解くカギである。

Q:「生命」がそのようなものだとしたら、「生命」の本質とは、ホメオスタシスによる恒常性維持であり、ネガティブ・フィードバックによる安定性維持ではないのか。
そうであるならば、なぜ、恒常性と安定性に反する「進化」が生じるのか?

A:「進化」とは、既存のシステムににおける「ゆらぎ」が、ある限界以上に増大し、既存のシステムの恒常性と安定性が維持できなくなった時、新たなる「構造」と「秩序」へと移行するプロセスであり、それは、より高次のレベルでの恒常性と安定性への移行にほかならない。
(引用終了)


私が「STAP細胞」すなわち「刺激惹起性多能性獲得細胞」という発想に聞き及んだ時に、思い出されたのが、プリゴジンの「散逸構造理論」に基づく生命論だった。
福岡の「動的平衡」という概念も、プリゴジンの生命論から敷衍したものであろうが、分化することによって相当程度まで平衡状態に近付いた細胞を持続的な刺激環境としての非平衡状態に再び置き直した時に、何らかの再生プロセスが発動するというのは、発想として有りなのではないかと、もちろん、素人の直観に過ぎないが思った。
自然のフラクタル次元というものを考慮に入れた場合、単細胞において生じることも、多細胞システムにおいて生じることも相似形であるとみれば、
多細胞システムとしての人間(人体)が、「訓練=持続的刺激」によって、例えば42.195kmを走りきることの出来る身体を作り上げることが可能だったり、あるいはパラリンピックの選手に見られるような、失った身体の一部に人工物を接続することにより、いわゆる五体満足の人間より優れた能力を発揮するといった「進化」の諸相(もちろん、この場合は、形質変化が生じているわけではないので、比喩的な段階にとどまるのではあるが、遺伝的な追跡調査を精密に行えば、一世代の個体の“努力”が次世代以降の形質に反映されることはないとは証明されていないだろう)は、単細胞においても、一見「初期化」の形を取りながら、プリゴジンの言う、より高次レベルでの恒常性と安定性に向けて変成するということが有り得るのではないかと夢想した。
少なくとも、「STAP細胞」という発想は、生命論に若干の関心を持つ素人にも、それだけの夢を見させてくれるアイデアであることは間違いない。
「STAP細胞」というものが、本当に生成可能なのかどうか、仮説の段階に再び入ったのだとしても、単に「生命工学」の領域ではない「生命科学」「生命論」の発展にとって、大きな可能性を秘めていると言うべきではなかろうか。
それは、人為的・工学的な設計思想から離れていることによって、むしろ、未来性のある、未来を引き寄せる可能性を秘めていると言って良いのではなかろうか。

プリゴジンは、前掲書に掲載された基調講演の中で、生命(非平衡物質)の「進化」について、次のように述べており、専門家でない者や、私のように基礎知識が不足している者にも分かりやすい。

(引用開始)
新しい性質を獲得した非平衡物質は、どのようにして「進化」するのかです。非平衡物質はどのようにして状態を変化させていくのかです。(一部略)
ここで留意するべきことは、非平衡というのは非線形と関係するということです。平衡から遠く離れた状態においては、系を記述する方程式は非線形方程式となり、複数の解を持つからです。平衡に近い状態においては、唯一の解しかありません。これが「熱力学的分岐」と呼ばれるものです。しかし、平衡から遠く離れていくと、多くの解が出現してきます。そして全く新しい状態が現れてくるのです。
私が若いころ、人々は「数学的な問題には解は一つしかない」と信じていました。しかしながら、いまでは、平衡状態から遠く離れた状態においては解は多数存在することが明らかになっています。そして、こうした解は「分岐点」において現れるのです。すなわち、平衡状態においては一つの解が現れるのですが、系に擾乱を与え、系の制御変数を変え、系の境界条件を変えるならば、分岐点において新しい解が現れるのです。
(中略)
一般に「平均的挙動」と「ゆらぎ」の間には相違があります。まず、巨視的な物理学においては平均的な挙動が重要になります。これに対して、ゆらぎは小さな影響しか持ちません。大きな系においては、ゆらぎというものはあまり大きな役割を果たさないのです。しかし、分岐点に近いところでは、ゆらぎというものは支配的な役割を果たすようになります。通常、ゆらぎというものは平均的法則の副産物ですが、分岐の近くにおいては、逆にゆらぎが支配的になるのです。この領域において、巨視的な挙動はゆらぎから生じており、ゆらぎは本質的な要素となるのです。
(引用終了)

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