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2014年5月

2014年5月31日 (土)

藤圭子の死が、私たちの身辺文化に問いかけてくるもの

少し前、『訃報ふたつまで』と題して、藤圭子と谷川健一の死を契機とする、私たちを取り巻く文化状況について、若干の歴史的アプローチを試みたことがあったのだが、語るべきことの多様性に目眩がして、精神衛生上、中断している。
だが、最近、話題になっているディズニーアニメの『アナと雪の女王』の主題歌を聴いてみて、ふと一言付け加えてみたくなった。
この曲、曲自体は、非常にエモーショナルな作りになっており、いわゆる西洋音楽のアリア、またロマン派歌曲の後継的楽曲とみなして良いだろう。
とても良い曲だと思うが、曲それ自体に、とりたてて特筆すべき特徴があるわけではない。
ただ、この曲の日本語版を聴いてみて驚かざるを得なかったのが、歌い手のストレートな歌唱力であり、音域の広い曲を、伸びやかな地声で全力で歌い切っているすがすがしさだった。
だからだろう、エモーショナルな曲想でありながら、けっしてウェットにならず、歌詞の内容とあいまって前向きな力強さが聴いている者の心に共振してくる。
最近は、身辺文化の情報を積極的に取りにいくという習慣がなくなってしまったので、この曲も今ごろになって聴いた次第だが、その歌声から、興味は自然と歌い手は誰かということに移った。
調べてみると、歌い手は、女優の松たか子とのこと。
女優として既に十分な名声のある人であり、歌手としてもそれなりのキャリアを積んでおり、そういう意味では、この映画で新たなキャリアアップが図られたと、単純な評価軸ではそのような評価になるのかも知れないが、私はそれだけではおさまらないものをこの歌声に感じさせられた。
ご本人、また業界的にはどう評価されているのか知らないが、この歌を歌うことで、松たか子という人は、新たな才能が開花されたとみても良いのではなかろうか。
ディズニーアニメの日本語版を作るにあたっては、多くの日本人スタッフも参加しているのだろうし、吹き替えに際しての歌も歌える声優のキャスティングというものは、それこそ総力をあげてなされるだろうことは容易に想像できるものの、出来上がってきたものの総合的な完成度=本格性というものには、やはり驚かざるを得ない。
まさに松たか子という才能が完璧に生かされ切っていることに衝撃を受けた形だ。
私が、個人的に、どれだけディズニーという企業や、たとえば代表的キャラクターであるミッキーマウスを嫌っていたとしても、そんな好悪の感情など、ものともしない「本格性」、そしてそういうものを満を持して世に問うてみせる(戦略性というよりも)準備万端さとでもいうもの。こういうものにぶっ飛ばされる感覚は、案外気持ちの良いものだ。
だらだらと、仲間内で傷の舐め合いだか毛繕いだかしている私たちの土壌では、松たか子という才能を、演じ手という側面ではいざ知らず、歌い手という側面では生かしきれていなかった……それがあの映画では、日本のその辺の歌手を生業とする者よりも圧倒的に立派な、間違いなく世界に通用する歌声を披露している……それをディズニーのスタッフがプロデュースしてみせた……このことは、自分たちの身辺文化を考える上において、等閑に付してはならないものだろう。
我が国にも、探せば、いや探さずとも、目の前に「才能」はあるのだろうに、それを本格的にプロデュースする力量のある者がいないこと、ここに彼我の文化的落差というものを痛感せざるを得ない。
「才能」が目の前で準備体操をしているというのに、それを開花させてやることも、もちろん大成させてやることも、リミックスしてやることも出来ない連中が、プロデューサー面してのさばっていることにヘドが出る。
いきなり卑近な事例を出して恐縮だが、我が国の宰相は、ASEANの首脳が集まる晩餐会において、「さあ、エンターテイメントを楽しみましょう」と言いながら、AKBなる子どもたちの集団を披露した由。
エンターテイメントというものをバカにしているから、そういう真似ができるのだし、そういうものをプロデュースして平然としていられるのだ。
そして、そのような者たちが、しけたカネをそれでも産み出すとなれば、業界こぞって「たかり」に走るのが、私たちが持ってしまったマスメディア業界というものなのである。
なぜ、こんなものを、私たちは我慢しながら持ち続けていなくてはならないのだろう。
そして今回、ディズニーは、そういう薄汚い「マスコミ」を当てにしない/相手にしないという戦略を意図的にとったようにみえる。
マスコミが話題にし始めたのは、この映画が既に十分なヒットを達成してからであり、それゆえに、私のような積極的に情報をとりに行かないものは、今ごろになって、はじめて歌を聴いて衝撃を受けるということにもなっている。
事実、これだけのヒットを記録しても、ディズニー側は、松たか子がこの歌をTVメディアで披露することを控えさせているようであり、この国のメディア環境=ガサツなメディア環境というものを、ディズニー側は心憎いまで掌握し切っているとも言えるだろう。
私は、エコノミストとやらが称賛しがちな、計算高さというものを正直毛嫌いしている口なのだが、今回は、「さもしき計算高さ」ではなく「堂々たる計算高さ」と言え、ディズニー側に軍配をあげざるを得ない。
本来なら、ここまでバカにされた卑俗マスメディアの側は、憤慨してみせるのが筋だと思うのだが、カネが流れるところには媚び売り第一の卑俗マスメディア連中は、いかがわしい揉み手をしてみせながら、ご機嫌伺いに馳せ参じ続けるのだろう。
薄汚くも哀れな連中だ。


40年以上も前に、スターダムに押し上げられて、そこまでは良かったとしても、今と全く質の変わらない連中に包囲されて身動きの取れなくなった藤圭子という「才能」を、このようなことがあると、再び想起せざるを得ない。
彼女一人が七転八倒したところで、状況は動くものではなかっただろう。そこにはどうしようもない非対称性が存在したのだから。
そしてその娘、宇多田ヒカルが、インディーズとして一世を風靡して業界を震撼させ、ほどなくして休止宣言をして以降というもの、この国の音楽系のエンターテイメント業界とやらは、それまでもひどかったが、そこに輪をかけて坂道を転がり落ちるように惨憺たる有り様を呈するようになっている。
この惨状を冷ややかに/クールに横目で眺めながら、「キミらさぁ、プロデュースってのは、こういうふうにやるもんなんだよ」と、ディズニーが手本を示しているという構図。
これは、まちがいなく屈辱的事態のはずだ、少なくともメディアを含む関係者にとっては。
だが、我が国のマスメディアは、屈辱を受けているという素振りも見せず(屈辱を受けている自覚すらもしかしたらなく)「儲かっちゃって、儲かっちゃって、笑いが止まらないんでしょう、ディズニーさん」とシナをつくってみせるのだろう。
その、たまらない醜悪さ。

突拍子もない飛躍に取られるかも知れないが、このような落差が生じるのは、畢竟のところ人権意識の差に由来するものなのだ。

そこが、腑に落ち、人口に膾炙されない限りは、私たちのエンターテイメント業界とやらは、接待業界と何ら区別のつかないものとして、今後も推移していくのだろう。
凄まじい話ではないか。

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2014年5月21日 (水)

権力者と、それ以外の人々を区別できなくなって来ている人たち

これだけ、世の中が複雑になってくると、政治的な立ち位置というものも、昔のような単純な色分けはしにくくなって来ているのだが、「そういうお前はどうなんだ」と問われれば、「リベラル側の人間だと思ってもらえば良い」ぐらいの返答をするだろうか。
自分の立ち位置を固定化したくはないし、どこかの政治党派に加入するほど、自らを“政治化”したくもない。
ただ、あえて言えば、精神的な自由を最優先するという意味における「自由人」でありたいという願望があるがゆえの「リベラル側」に属するんだろうなという認識はある。
こんなややこしい言い方を始めたのは、他でもない、そのような“リベラルな立ち位置”を共有し得るだろうなと思って、比較的目を通すことが多かったブロガー諸氏の一部に、ある種の容認しがたい傾向が生じて来ているようで、不愉快な思いをすることが多くなって来ているからだ。
自分自身、うまく出来ているか自信はないと言えばないのだが、ただ、一般的なモラルとして、私は、いわゆる権力者と一般人とを、常に分けて考えているつもりだ。
ブログ等で固有名を挙げて、辛辣な批判対象にしても許される人……もちろん「辛辣な批判が許される」といっても、一定の限度は設けられるべきだとも思うし、近年のマスメディアに見られるような組織的な捏造報道や風説報道などもってのほかだが……ともかくも、そのような厳しい批判の対象にしても構わない人とは、やはり、権力者とそれに準じる人に限定されて然るべきだと思っている。
そんな曖昧な基準で良いのか、と言われてしまえば立つ瀬はないと言えばないのだが、それでも、内的に一定の差異線を引いておかなければ、今後、個人を対象とする人権侵害は、拡大こそすれ減少することはないような気がする。
最近の例としてあげるなら、典型的なのは「小保方氏叩き」だろう。
下賤下劣なマスメディアの尻馬に乗るようにして、いわゆるリベラル派だと漠然と想定していたような人々までが、何が癪にさわったのか知らないが、一種異様な剣幕で彼女個人を対象に執拗に誹謗中傷の類いをばら蒔いている。
また、直近の例で言えば、PC遠隔操作事件で“自白”を始めたとされる容疑者についてもそうだ。
“自白”を始めた途端、手のひらを返して、誹謗中傷の雨霰になっているようなブログが散見される。
常日頃、ヒトカドの人間ふうの政治的な主張にしたがって権力者を叩いているのと同じ調子で、突如として「一個人」を祭壇だか断頭台だか知らないが、勝手気ままに上らせて、まさに「人民裁判」を始めてしまうようなブログ。
権力者とは言わないまでも、同じ個人にしたところで「一定の組織を背景にして、その組織の力によって守られることが確実であり、また本人もその自覚をもっている人」と、「頼るべき組織も背景もない人」とでは扱いが違って当然なのではないか。
「小保方氏叩き」に典型的に現れた症状なのだが、まるで彼女が、一定の組織を背景として何らかの力を振るえる人であるかのように、彼女を「悪の権化」であるかのようにみなして中傷を繰り返しては意気揚々としている人がいるが、私には、信じがたい。
もちろん、彼女が理研のユニットリーダーとして、自分の研究だけが素晴らしく、他の研究はまるでダメだというようなことを執拗に繰り返すようなことがあったなら、彼女を強烈な批判対象としてもやぶさかでない面はあるだろう。
実際、彼女がメディアの土俵に華々しく登場してきた時はそのような一面がなきにしもあらずだった。
癪にさわった人々というのは、それを根に持っているのだろうか、しかし、今や彼女は守る者のほとんどいない「一個人」に過ぎない。
そのような情勢の変化も考慮に入れず、どこまでも執拗に叩きつぶしてやるというような偏執を見せる一部の人々がいるが、単純に残念だし、極めて不愉快だ。
片山氏にしても同じで、自分が勝手に捜査当局や司法当局に挑戦状を叩き付けたヒーローのように扱っておきながら、“自白”を始めた途端、突如として手のひら返しをし、権力者の“悪行”を叩くのと同等のレベルで、罵詈雑言を並べ立て始める人がいる。
「だが、ちょっと待ってほしい」
それは、やはり、ちょっと筋が違うのではないか。

このような事例に窺い知れるヒステリックな心理の増殖。
そこからは、私には到底容認しがたい「ヘイトスピーチ・デモ」や「ストーキング・ハラスメント」等に通底する心象を感じ取らざるを得ないのであり、少なくともリベラル派を自認するような人々にとっては踏み越えてはならない一線なのではないか。

確認しておかなければならないのは、「個人」という概念であり、政治権力者ですら、ブライベイトな時間と空間では「個人」に帰るわけなのだが、一般的にメディアによって取り沙汰される人物の中にあっても、どこをどうひっくり返しても「個人」以外の属性に極めて乏しい人と、「個人」であるよりも彼の社会的属性としてある「代表としての立場」だとか「権限や権力の保有者としての立場」の方が圧倒的であるような人とでは、扱いが違って然るべきだろう。
私が、マスメディアに対して最も容認しがたく感じるのは、彼らが「権力」に対峙する覇気も勇気も矜恃も義務感も責任感もないかわりに、スケープゴートとしての「個人」を次から次へと見つけ出して来ては、叩いて潰してみせることだ。
まさに幼稚にして醜悪な「いじめ」と同じ構図であり、それこそが、社会的不健全さの元凶であり源泉ではないかと思う。
少し誰かにほめそやされたり、若干の注目を浴びた程度で、突如としてのぼせあがってしまい、「我こそは正義の守護神」とでも言いたいかのごとく、愚劣マスメディアになりかわって悪を討つみたいな居丈高な姿勢になってしまう人が見受けられるが、滑稽だ。
「個人」として「個人」の資格でブログなりツイッターなりやっているに過ぎないにもかかわらず、事実は徒党を組みたいだけなのではないかという人たち。
もちろん、健全な(何をもって健全とみなすか、これまたむつかしい話になってしまうが)社会運動等に結びつけたいというのなら分かるが、その場合は、最初からそう主張して、組織化を志すべきだろう。
主張が似通う人がいれば、仲間意識が芽生えるのは自然な感情の流れだとしても、だらしない仲間内感情だけで、何かに、とりわけ「個人」に圧力をかけるようなやり方は醜悪だと思うべきだろう。
日本社会がこんなに薄気味悪い社会になってきたのも、そのようなことを平然と、あるいは漠然と、だらだら許容し、「個人」として屹立し続ける価値と不安に向き合って来なかったからにほかなるまい。
(ツイッターというのは、その点、非常にイヤな傾向を促進させる心理的な相乗作用を有していると思う)

「個人」で可能な「悪行」など、たかが知れている。
一方、人間とは「集団的動物」なのであり、人間が徒党を組んでなす悪行(システマチックな悪行)は、ある意味で底無しだ。
そもそもにおいてと言うべきか、「文明」というもの自体、「底無しの悪行」たる可能性をはらんでいる。

だからこそ、西欧近代における「個人」の発見というものは、大きかったのだと考える。
「個人」をないがしろにする者たちは、平然と「衆を恃んで」悪行を働きはじめる。少なくとも、私はそう観測している。

この悪しき傾向を自覚し払拭しないことには、私たちは、安倍政権のような政権を批判する正統性なり根拠なりを失ってしまうのではないか。


今回は、自戒を込めながら、まさにつらつらと記してみた。
本当は、権力批判なんかしているよりも、こういうことの方が大切であり大事なのかも知れない。
「権力」など握る可能性もなければ、握るつもりも、また「権力」などというものに、さして本質的な興味もない人の方が多いのだろうし、そのような人こそ「生活人」であり「生活者」のはずだから。
“リベラルな”私が言っても説得力はないかも知れないが、「生活者」を守れずして/守ろうとせずして、「保守」などという概念は成り立たないだろう。

いい加減で醜い国になり果てたものである。
(訳の分からない掛け声とはうらはらに、この国には、スマートさとクールさとが欠落している点、本当に恥ずかしいと思う)

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2014年5月19日 (月)

その“惨事”の波及力に堪えかねるように、韓国の朴大統領が大粒の涙を流しながら謝罪していた。現役大統領としての威厳の失墜した瞬間とも見えた。一方で我が国は、あらゆる不都合な情報を闇から闇へ押し流し、闇の中で取引し、決済する「闇市国家」を選択したかのようだ。

今、国内に安全保障上の重大事態が現在形で進行しいる。それを手をこまねいて見ているばかりなのが、我が国が抱えることになった危険な無能政府である。
自己責任による深刻な安全保障上の破綻面を目前にしながら、現行政府のとってみせる「それはさておき」という姿勢は、どう好意的に見ようとも、正常さの範疇から逸脱しているとしか思われない。
「ないものねだり」が高じて周囲が全く見えなくなっている安倍晋三なる総理職にある人物は、まさに、母屋を潰すバカボンそのものであり、あわれをもよおすのを禁じ得ない。
国家国民の安全保障に関する現代的な視点が徹頭徹尾欠落しているがゆえに、いかにも19世紀的な軍事的側面からしか安全の問題を語れない。それが、母屋潰しに精を出しているようにしか見えない我が国の“何も分かっちゃいない”バカボン首相の特徴のようだ。
周囲を固めているブレーンや彼を応援している者たちの能力も、よってそれ以上に歪んだ相当いかがわしいものであることは間違いない。
今、我が国で顕在化してしまったのは、国民の安全保障上、最も重大な打撃を与える可能性の高い存在は日本国政府自身にほかならないという、逆説めいた現実だろう。
その証拠に、現在進行形の日本本土における安全保障上の重大な破綻面/破断面は、一民間会社による殺伐感の拭えない努力に委ねられ、押し付けられているばかりなのである。
このことを不問に付して、今後の我が国の安全保障体制を云々することは、著しく合理性に欠ける態度だとみなすしかないのであり、政府組織が、国民の安全保障上のリスク要因にならないための新たな体制、新たなチェック機構の構築こそが求められているはずである。「憲法」を俎上に何かを語るのなら、その方向以外に喫緊の課題はないと言うべきだ。

さて、では改めてここで一度「兵器」というものについて考えてみたい。
「兵器」とは、広義には通信機器や運搬用車両など、間接的であれ、敵にダメージを与えるために有用なあらゆる器材を指すとのことだが、一般的には(狭義においては)敵を殺傷しまたは破壊する目的を持つ器材のことを指すはずだ。
その主目的は、生命または生命の生存に必要な人工物を含め環境を破壊することにあるため、「兵器」は、意図するしないとに関わらず、運用次第では、敵でも味方でもない民間人を殺傷したり民間の建造物を破壊したりすることはもちろん、自然環境にも危害を与えることがあり得る。
さらにその最悪の運用(誤った運用)に際しては、味方に対して「兵器」の主目的が機能する場合もあり得る。
ここまで言えば、もうお分かりでない方はいまい。
放射性燃料がメルトダウンし、燃料の状態すら分からないがゆえに、手付かずのまま放置されている/放置せざるを得ないでいる「福島第一原発」とは、明らかに「兵器」としての機能性を獲得してしまった器材なのであり、しかも最悪なのは、この「兵器」が、肝心の味方に対して機能し続けている点にある。
日本政府は、これに意図せざる結果というエクスキューズを付与したいのだろうが、意図しようがしまいが、殺傷能力及び環境破壊能力を有する器材が機能し続けている点において、まぎれもなく福島原発は、「兵器」として再生を果たし、そして機能し続けているのだ。
これが、我が国の安全保障上の最大の懸念事項でなくて何であろう。
安倍晋三という首相は、日本国民の命を守るのに人一倍熱心な人物であるようではあるが、現在進行形で機能を発揮し続けている「兵器」に対処するよりも、潜在的な可能性としてある危機の方が気になって仕方がないようだ。
また、国土の保全という意味においても、顕在的に回復不可能性が高まりつつある有人の本土の一部よりも、潜在的な危機下にある無人の離島の方が気になって仕方がないらしい。
むしろ、この首相をはじめとする日本政府の面々は、本土の危機的状況については、「気に掛けるな。気に掛けて、不安や心配の声を上げるなら、それは風評の流布とみなし、声を上げたものを処分する」と言っているようにみえる。
一方で、無人の小さな離島については、資源開発の可能性があるのかないのか知らないが、「常に気に掛けろ。仮にこの島が奪われるようなことがあれば、それは日本が終わる時とみなせ」と言っているようにみえる。
私は、日本政府から発せられるこの類のメッセージを受け取る時、常々奇妙にして強烈な違和感を感じざるを得ないのだが、その違和感の原因を探ってみるなら、以上のような、いかにもバランスを逸した、とても得心しかねるメッセージが、当の日本政府から平然と垂れ流されて来るからだろう。
このバランス感覚の失調は、直ちに社会的な治療が施されないと、やがて重大な妄想と暴走を生む可能性があると心すべきだろう。

物事には何であれ、プライオリティ、優先順位というものがある。
「スマホばかりいじってないで、ほら、宿題ぐらいやってからになさい」
全国のいたるところで発せられているであろう、主として母親のこのような台詞は、子供たちにプライオリティというものの存在を意識付けするためになされているものだろう。このような意識付けを、一般的に「躾」と呼ぶが、私たちは主として母親に幼少時からしつけられることによって、「うるさいな、煩わしいな」と思いながらも、物事にはプライオリティというものがあるということを自然に学び体得していく。
よって、社会に出てから、プライオリティに関する判断に問題の多い人物というのは、幼少時からの家庭内教育に多大な問題を抱えていた可能性が高い。
もちろん、同時並行的に進められる能力が十分にあるのなら、プライオリティ云々などと言わずに、黙々と同時進行させれば良いとも言えるのだが、現在の我が国に果たしてそんな余裕があるのかどうか。
分かりやすい比喩を提示してみよう。
たとえば、ある、水虫と重大な肝臓疾患とを同時に抱えて悩んでいる人物がいたとする。
その彼が、肝臓疾患については「オレから酒を取ったら何が残る」などと嘯きながらほったらかしにし、一方で、水虫については異様に神経質になり、水虫を完治させるためには、周囲から白癬菌の生存出来る環境を取り除くことが重要だとして、毎日毎日、訳の分からない消毒作業に夢中になっていたら、人はどう思うだろうか。
「精神のバランスを欠いてしまっている」とみるしかないのではなかろうか。
それどころか、身近にいる友人や同僚が親切心で、「キミ、水虫治療も、そりゃ大切かも知れないが、みろよ、これ。これは、黄疸じゃないのか?」と自覚を促すために心配したやったとする。
すると、突然逆上し、「お前はオレの悪評を風評として世間にばら蒔くつもりか?どういうつもりだ?これは、黄疸ではない。オレの手は生まれつき黄色っぽいんだ。そんなにオレに黄疸が出ているというなら、お前がデータにして示せ」などと騒いで暴れ出すにいたったらどうだろう。
そうなると、君子危うきに近寄らず状態が彼の周囲に出現することになるしかないのではないか。
それでも、誰か古い友人か何かが、「お前、ご家族が心配しているぞ。ご家族のためだと思って、早く治療しろ、明日、早速医者に行くんだよ」と良かれと思い忌憚のない助言をしたとする。
「何を言ってんだ。いいか、オレは家庭の最高責任者だ。オレが、家庭の最高責任者なのだ。オレのことも家庭のこともオレが決める。家族に口出しなんかさせない。ましてや、お前なんかに口出しはさせない」
こうなってしまったら、どうだろう。もはや何をかいわんやであり、誰も手がつけられなくなってしまう。
手をつけるとすれば、トラブルが生じるのを覚悟の上で、あえて手をつけざるを得ない状態であり、そのような覚悟を抱いてくれる友人こそ、真の友人であるはずだ。
だが、一旦、どうにも意固地な状態に陥ってしまうと、人間、しばらくは自分を含めた周囲の状況を冷静に判断できなくなることはあり得ることだ。
そういう意味では、同情すべき点もないではないが、ただ、それよりも重大なのは、今ここにあげた比喩は単なる比喩で済ますべきものなのかどうかということ。単に笑い話で済ましてしまって良いのかどうか、ということだ。
もちろん、比喩としての限界はあるだろう。
だが、一国の総理大臣ほどの人物ならば、明らかにバランスを欠いた精神状態になることなど絶対にあり得ないとは、誰も断言できまい。
できるはずがない。
だからこそ、近代以降の政治システムは、チェック&バランスを重視した、様々な制度上のリスク対策を構じてきたはずなのだ。
とりわけ、議会制の民主主義体制というのは正統性のある合議とそれに基づく手続きというものを基軸に据えた政治体制だったはずだ。
そういう近代の歴史上の教訓をふんだんに盛り込みながら構築されてきた制度の根幹が、何らかの理由で(予めか突発的であるかどちらにせよ)バランスを欠いてしまった人物と、その周囲に群がるいかがわしい思惑を秘めたガサツで野蛮で下賤なゴロツキどもによって、いとも安易に反故にされるのなら、それを「国家の危機」とみなしても杞憂にはあたらないはずである。
この「危機の進行」に対して、制度上あるはずのスタビライザーが働かないのなら、その国家の制度は不治の病並みの機能不全を発症しているとみるしかない。

何らかの緊急動議のようなものが、発されてもおかしかないような気がするし、何らかの正統な方法を、「国会」は模索すべくではないだろうか。

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2014年5月14日 (水)

その“惨事”の結果、韓国経済界は、安倍政権と手打ちをし、我が国政府は、竹島が安保条約の適用範囲外であることを確認したようだ。

経済系ニュースサイトのJBpressをみると、英国のエコノミスト誌による『マレーシア航空307便の地政学』というコラム記事が訳出されていた。
読んでみると、何というべきか、ともかくもこの事件をめぐる主要関係国の事実関係に関して非常に率直に述べた記事になっており、フィナンシャルタイムのように捻りを入れ過ぎていない分、逆に興味深い。
日本のマスメディアを丹念に調べているわけではないが、今や日本のマスメディアについては、あらゆる事象について「隠蔽」の方に比重がかかっており、日本政府や経済支配層に少しでもマイナスになるような事柄は、重要情報に限って積極的に隠蔽されているのではないかと疑われてならない。
マンガ『美味しんぼ』の原発をテーマにした回に関する騒動にしてもそうであり、日頃、新聞やテレビがまさに「公平性」を意識した両論併記型の記事掲載を心掛けていれば、あの程度の内容が、まるで「タブー破り」ででもあるかのように騒がれる方がおかしいということになったはずだ。
放射能に関しては、科学的に因果関係を断定できる「事実」というのは極めて少ないはずで、このことは、いわゆる反原発、原発推進双方に言えることだろう。
したがって、ある「事実」をめぐる評価は、拠って立つ立場の違いによって分かれざるを得ない面があり、「評価」に言及される際は、両論併記的な示し方をするのが報道機関としては公平かつ穏当な立場となるはずだ。
もちろん、報道機関とは、言論機関なのでもあり、たとえば社説その他コラム欄で、一方からの立場を鮮明にするということはあり得ても良いだろう。
しかしながら、その場合でも、自分たちのものとは立場を異とする者の意見を、社会的な力を背景に潰しにかかることはあってはならないことだ。
安倍政権ですら、「力を背景とした現状変更は許されない」と既に何度となく言明している。その点のみを取り出せば、この政権は、ごく常識的にみて正しい原則を述べていることになり、この原則は、国際政治のみならず国内政治にも当然適用されるべきものだ。
ところが、現実は違う。
安倍政権の用いる言語のほとんどは、「ガキの言い訳レベル」で上滑りしているのみで、ご都合主義さえ満たされれば、言語と現実の相関関係などどうでも良いとみなされていると見るしかないものになっている。
その象徴的な例が、『美味しんぼ』をめぐる騒動であり、首相本人こそ直接言及していないものの、官房長官を始めとする関係閣僚が、一マンガの内容について、野党時代に自らがした国会質問もなんのその、大っぴらに不快感を示すという異常事態にいたっている。
これが「力を背景とした現状変更」ならぬ「力を背景とした現状維持」でなくて何と呼べば良いのだろうか。
「力を背景とした現状維持」、それは言葉を替えれば、「情報統制」にほかならず、都合の悪い情報の「抑圧」と「隠蔽」によって初めて成り立つものである。
現政府は、マンガに示された情報を完璧に否定し得る根拠も論拠も十分に示すこともなく、「風評の流布に値するような情報を世間に出すのは不快だ」という一本調子の政治言語により、「力」を誇示している。
(本来あるべき)政府として異常な姿であり、また、そのような異常な政府のコメントを無批判に垂れ流すマスメディアは、(本来あるべき)メディアとして異常だ。
仮に、国内はそれでおさまったとしても、今の政府もマスメディアも、「外部の目」の存在、「観察する目」というものの存在を完全に忘れているか、忘れた振りをしている。
こんな杜撰な対応が、今時の情報化社会で通用すると思っている時点で、政府として論外だろう。
この「論外政府」の用いる「法の支配」なる言葉こそ、こうしてみれば、「政府による風評の流布」なのであり、「立憲主義」すら反古にして平然としている「論外政府」が口に出して良い言葉ではない。
この手の支離滅裂さこそ、安倍政権の特徴であり、語の意味内容と現実との相関関係・対応関係が失調している様は、反知性主義などという綺麗事を通り越した、理性では統御しきれない何か病的なものを感じさせずにはおかない。

……余談が過ぎた。(もちろん、背景にあるテーマは、同一なのだが)
話を戻すと、私は、前々回の『アジアに生じた二つの「惨事」』というコラムで、「マレーシア航空機事故は政治利用に失敗した惨事」と評してみたのだったが、それは単に私の情報不足によるものだったようで、エコノミスト誌によれば、米国は、マレーシアという国を自らの側に引き寄せるのに相当程度の成功をおさめていたらしい。
一方、中国は自国民に多くの被害者を出していながら、あるいはそれゆえに、微妙な立場に立つことにならざるを得ず、結果的に、米国の引き立て役に終わったようだ。
すなわち、「マレーシア航空307便不明事件」は、機体の発見にいたらずとも、十分に「政治利用」され、政治利用の側面から見れば、相応の成果をおさめた…つまり、ショック・ドクトリンは現実に作用した、と言える。
一介の庶民にしてみれば、実に恐ろしい話にほかならない。本来なら起きるはずのない、あるいはその可能性が極小の、得体の知れない“惨事”で、一つしかない命がいとも呆気なく奪われることもあるどころか、身内に対する遺族らの当然の悲しみが、“政治利用”に供されることもあるわけで、これは死者に対する二重の冒涜とみなしても良いのではないか。
もっと酷いのは日本の大手メディアであり、“惨事”の周辺をめぐり、素人視線丸出しでわいわいわいわい騒ぐばかりで、いわば野次馬以下の興味本位で周囲に徒らに群がってみせるだけなのだ。
そこに徹底的に欠落しているのは「事実の究明と自らの言説を含む検証の視線」だ。
そして、どこかの“当局”が、「これにて一件落着」「撃ち方、やめ」と号令を発した途端、「いったい、そんなことがいつどこであったのか」という風情で、知らぬ存ぜぬ紛いの無関心を貫き始める。
あまりに異様な、まさに報道とは名ばかりの喧騒の流布と政治宣伝紛いの方向付けが白昼堂々と繰り広げられるのだ。
こういうことを単に「知り」、「確かめる」だけでも、何かが違って来るはずなのだが…。
どうも優秀な人々は、目前の仕事をこなすのに忙しく、こんなことには、頭も目も手も足も割くような時間は見当たらないらしい。
小規模の渦巻きが、いつしか寄り集まって手の施しようのない巨大な竜巻になるように、いたるところにある負のスパイラルは、やがて巨大なスパイラルの束となって私たちの生活を襲う……そんな気がしてならない。

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2014年5月 7日 (水)

「自尊心」を「他者」によって毀損された時ほど、自らを客観的に見つめ直す良い機会だとおもうしかない。

昨年末、私は、東アジア全体が追い詰められつつあるのに、東アジア諸国の為政者は、全くその自覚が足りない旨の文章をエントリーした。
案の定…というべきか、EU官僚が、日本を対象として、経済協定にあたっては「人権条項」を設けるよう要求しているとのニュースが流れた。
安倍が欧州外遊中で、フランスで満面の笑みを振り撒いているその最中にあって。
時事通信の配信記事によれば次のようだ。(ブリュッセル時事)


(引用開始)
欧州連合(EU)と日本が、貿易自由化に向けた経済連携協定(EPA)と同時並行で締結交渉を行っている戦略的パートナーシップ協定(SPA)に、日本で人権侵害や民主主義に反する事態が起きた場合、EPAを停止できるとの「人権条項」を設けるようEUが主張していることが、5日分かった。
(中略)
経済的利益と引き換えに民主化を迫るのは、開発途上国や新興国に対するEUの基本戦略。人権条項は第三国との協定で「不可欠の要素」とされ、対日SPAも、こうしたEU外交の延長線上にある。
ただ、EUは米国との自由貿易協定(FTA)交渉では、SPAのような政治協定の締結を求めていない。
(後略)
(引用終了)

日本の政府当局は、このようなEUの姿勢に憤慨し、反論を試みているとのことだが、「捕鯨裁判」同様、一切まともに相手にされないか、あるいは、今後の交渉において、「人権条項」を削除するための大幅な譲歩が必要とされるという結果をみるしかないだろう。
これみよがしに憤慨してみせれば憤慨してみせるほど足元を見透かされ、日本の官僚話法による下らぬ反論などしようものならたちまち嘲笑われ、「そんなに一等国扱いしてほしくば、我々の要求を呑め」と迫られることになる。
司法と行政(検察)、また当然のこと一部の政治勢力が結託して小沢一郎を排除してみせた結果、国内はいざ知らず、国際的には完全に足元を見透かされてしまったのが我が国が置かれている現状であるとみなせる。
だが、いったい、そのことに気付いている支配層は、我が国にどの程度存在しているのだろうか?
「あなたがたの司法制度は中世並みだ」と、アフリカの小国代表に指摘され、「シャラップ!!」と餓鬼のように叫ぶしか術のなかった外務高官や、足元を見透かされていることに気付きもせず、「捕鯨裁判」では少なくとも負けることはないと思い込んでいたTPP主席交渉官でもある、これまた外務高官ら氷山の一角。
「私が最高責任者」とふんぞり返るのは結構だが、「最高責任者」とは如何あるべきかを知らない宰相。
先進的民主主義国の公共放送だというなら、たとえ痩せ我慢をしてでも投げ捨ててはならない建前を、就任の記者会見で見事に放り投げてみせる放送協会会長。
国際的な報道の自由度ランキングが下がれば下がるほど、なぜかますます政府との癒着を強め、幹部が首相と頻繁に会食を繰り返すマスメディア連合。
「○○を殺せ!」などと、街頭で平然と叫ぶデモが頻繁に繰り返されても、社会問題化することもなければ、議会が重大な議案として取り上げることもない社会。
日本初のミス・インターナショナルを“売春婦”のように扱おうとし、反発されると、組織を背景にして、実質的に国内では仕事ができないようにする強欲だけは一人前の無能にして遅れた凶悪な業界の存在。
同じく組織に傷がつきそうになると、無限の可能性を持つ若い研究者を生け贄の子羊、人権侵害専任のゴロツキどもの餌食として、自分たちだけは逃げきりを図ろうとする科学業界。
いちいち数え上げて行けば切りはないのだが、一つ一つのエピソードが全て、足元を見透かされるのに十分過ぎるほどのインパクトを持っているのではないか。そういうものが、あたかも加速度がついているかのように矢継ぎ早に積み重なっていくのであれば、「外部」の人間が、日本社会全体をどのように評価するか(また、どう評価を変えていくか)、分からないはずはなかろう。
分からないはずはないにも関わらず、そうと指摘されて、「憤慨」してみせ、根拠薄弱な「反論」をしてみせるのなら、地球上のどんな場所であっても、まともに相手にされなくなるのは理の当然ではないだろうか。

もちろん、EUが完全無欠な社会であるはずもないことは言うまでもない。
ウクライナ問題一つとっても、キエフ暫定政府に対する欧米の姿勢にかなり無理があることは、世界中が知っている。
しかし、「人権」をタテにして、交渉事でイニシアチブを相手側に握られてしまうほどの惨状というものを直視しないことには、「あなたがたEUだって…、あなたがた米国だって…」などと“反論”したところで、自己認識力ナシ、自律性ナシ、改善能力ナシの餓鬼の戯言として無視されるばかりだろう。
本年2月27日、米国務省から発表された「人権報告書」では、日本について、ヘイトスピーチ(憎悪表現)によるデモに関して懸念を表明している。日本に住むマイノリティについては、在日韓国・朝鮮人に限らず、中国人やブラジル人、フィリピン人らも社会的差別を受けていると指摘している。
3月6日には、国連の拷問禁止委員会委員で、日本の司法制度を「中世並み」と厳しく批判したモーリシャスのドマ元判事が東京で記者会見、「日本の刑事司法は容疑者の自白に頼り過ぎ」とし、死刑制度についても、執行が直前まで本人に告知されないことを問題視し、拷問に等しいと述べている。
こういうエピソードから見えてくることは何か?
今や、日本の人権状況に厳しい批判の目を注いでいるのは、日本に対して敵対的な姿勢をとりがちな国ばかりではないということ。
しかも、より重要なのは、世界は我々が思うよりもはるかに日本のことをよく観察している、しかも正確に、ということだ。
「STAP細胞」騒動によって、科学コミュニティのあり方に論議が及ぶ場面もあったが、今や科学界のみならず、あらゆる領域で、有識者のコミュニティは存在していよう。
科学コミュニティ同様、そうしたものは、なくもがなの弊害を生むことも当然あるが、重要情報の迅速な共有という面で、コミュニティの形成は避けられまい。
そのようなコミュニティの外交部門、政治部門において、今や日本がどう語られ、どのように見られるようになっているか。
「人権」というキーワード一つを中心に見ても、確かに一人の日本人としては直視するのもはばかれるような状態になっているのではないのか。
私のような最低賃金スレスレの年収であえいでいるような地べたを這いずり回る庶民にしてみれば、そのようなコミュニティがあると思うだけで、無条件かつ無根拠に反発したくなるような心情もあるのだが、さすがにまがりなりにも支配層の側が「シャラップ!!」では、これはもうお話にならないということなのだ。
安倍の「靖国参拝」が、世界中からなぜあるほど反発を受けたのかと言えば、このようなものの集約的行為、象徴的行為とみなされたからに他なるまい。
「歴史解釈の修正」だの「憲法解釈の修正」だの、大言壮語するのは結構だが、本当にそれを成し遂げるためには、相当の力量とその蓄積と説得力や交渉力が必要になるはずなのだが、とても一定のレベルに達しているとは思えない者たちが寄ってたかって詭弁を弄したところで、まともに相手にしてくれるのは所詮、国内の利権や思惑絡みの者だけだ。
これらの者を、世界はゴロツキと見るだけだろうが、当然、ゴロツキでも利用できる時は利用してくる。
ゴロツキを甘やかして割りを食うのは、当該国内の国民に過ぎないのだから。

やがて、日本全体がゴロツキばかりの住むゴロツキ国家とみなされないためには、何らかの「能力」を発揮せざるを得ないだろう。
それが、どんな「能力」なのか、この国の支配層の中にわきまえている人材がどれほどいることだろうか。

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2014年5月 1日 (木)

アジアで生じた二つの「惨事」

環太平洋国家において、大きな航空船舶事故が立て続けに起きている。
マレーシアはTPP加盟国であり、加盟国の中でも、独特な立ち位置を発揮する有力国の一つだ。
韓国は、TPP参加国ではないが、言うまでもなく米国との関係の深い環太平洋国家の一つだ。
こういう国家で、矢継ぎ早に通常ではあまり考えられない巨大な惨事が航空船舶関連で生じたことは、偶然なのだとしても、不自然さも残る。
こういう不自然さの残る事象について、何の確定的根拠もなしに「誰かの仕業」としてしまうなら、いとも容易に/いとも虚しくいわゆる「陰謀論」というものに堕してしまうわけなのだが、「惨事」というものは、まったき偶然だろうが、あるいは“下手人”が誰であろうが、事後的に「政治利用」することは十分に可能だ。
「ショック・ドクトリン」遂行者にとって、願ってもない“偶然の”惨事が立て続けに生じたことは、たとえ事象自体はどこまでも偶然であっても、それが民衆に与える心理的ショックは、「政治利用」されるべき必然性に覆われている。

興味深いのは、マレーシアの航空事故が、迷宮入りに近くなった絶妙のタイミングで、韓国の船舶事故が起きており、一本芯の通ったところが皆無の我が国の報道にあっては、前者の報道は後者の報道にかき消されてしまっている。
思うに、マレーシアの航空機事故は、「政治利用」には失敗した惨事と言える。
あまりにも不明な点が多く、なおかつ不明機が発見に至らず、事故原因について、推測の域を越えた詮索が不可能になってしまったため、「政治利用」しようとすれば、かえって「利用しようとする者の思惑」が詮索されてしまうような状況になったと言って良いのではなかろうか。
これは、マレーシア当局が情報戦において有能だったからなのか、事故の顛末があまりにも「政治利用」に適しない形に収斂してしまったからなのか、おあつらえ向きの代替「惨事」が生起したことによる相対的沈静化とみるべきなのか。
一方、韓国の船舶事故は、これから「政治利用」に向かってますます盛り上がっていくこと必定だろう。
昨日だったか、韓国大統領が初めて被害者に政権の不手際を詫びたという報道がなされていたようだが、事件のあらましを見る限り、被害者遺族側も、一般的世論も、謝罪によって手仕舞とはなりそうもない。
韓国の国内事情に詳しいわけではないが、サムスンは減収減益トレンドにはまりこんだようであり、ただでさえ難しい舵取りが迫られつつあった現政権には、致命傷となり得る要素をはらんでいるのが今回の「惨事」なのだと言える。
初の女性大統領として、いわゆる「従軍慰安婦問題」に的を絞った外交キャンペーンを張った朴大統領の気持ちは分からないではないがが、(それに対する日本側の反応は別問題として)この種のキャンペーンは、別に韓国の国際的地位向上に資する類いのものではないばかりか、国際的な同情を誘う/同情を買おうとするものでしかなく、日本の相対的地位の低下を狙ったものだとしても、実益上においては大して効果の上がるものではなかろう。
それに、この種の心情優先政治というものは、あまり執拗すぎると、その執拗さの原因の方にやがて興味が移りかねないリスクをはらんでいると言えるだろう。
先日来、「ジャパンハンドラーズ」ひいては「東アジアハンドラーズ」の政策転換が一部で話題になっているが、それに呼応するかのように、安倍政権は、それまでの反発型の政策対応を封じて、河野談話の踏襲を決定し、韓国におけるオバマ大統領の「おぞましい人権侵害」発言に対しても、安倍は「胸が痛む」と応じてみせた。
こういう“政策転換”の中で、韓国の朴大統領の存在が、(ハンドラーたちにとっては)厄介なものになりつつあるとしても全く不思議ではない。
「だから、船舶事故は引き起こされた」と言ってしまえば、これは陰謀論になってしまうのだが、「だから、船舶事故は、この機に政治利用される」とまでは言えるだろう。

韓国は、近年になって、「反米大統領」で失敗し、いよいよ「反日大統領」の失敗も明白化してきている。
日本の外交政策も負けず劣らずひどいものだが、近年の韓国の直球勝負型外交もけっしてほめられたものではあるまい。
少数の財閥系企業優先で、確かにそこそこの経済振興は果たしたのかも知れないが、IMF受け入れ以来の米国型資本主義の受容は、おそらく国内の格差拡大や統治の亀裂を広げるばかりというのが現況なのではないだろうか。
ひるがえって、韓国という先例があるのにも関わらず、米国との関係において「TPPは日米主導によるアジア経済の新しいルール作り」などとのたまってみせる「買弁勢力」に主導権を握られている日本政治というものも実に悲惨なものであり、何ゆえにイニシアチブを握られたまま打開できない政治ばかりが継続されなければならないのか、日本支配層の知恵のなさにも日常的に愕然とし続けなければならない。

安倍の低能なブレーンがよく口にする「なぜ、我々が集団的自衛権を有してはならないのか」「なぜ、我々が厳正な管理下で武器輸出することが問題視されなければならないのか」といった類いの議論は、全てが典型的「後追い型の議論」であって、そういう段階の議論を「オレサマがタブーを破ってみせる」レベルでやっていたのでは、イニシアチブというところからは遠ざかるばかりだ。
だが、安倍程度では、そういうことが全く分からない。
「世界一」が大好きな「危険な人の好さ」によって、「後追い」を「世界一」に到達するための必須の道程のようにみなしてしまうのが関の山なのである。
紛れもない憶測には過ぎないが、ジャパンハンドラーズは「韓国は大人しくさせるから、日本も過剰反応するのはやめろ」と“アドバイス”しているのだろう。
事実、アーミテージは、「中国についても韓国についても、日本側から刺激するのはやめろ」と何回となく釘をさしている。

自民党だの安倍だのが大好きな日本人は、もうめんどくさいから、アーミテージ様にでも帰化してもらい、次の首相職を委ねてしまった方が分かりやすくていいんじゃないのか。
こんなバカバカしい国には、それがお似合いかも知れない。
(あ、でも、アーミテージ様ならこう言うだろうね。「私は、私が考える限りにおいての米国の国益最大化に資するよう動いているだけであり、本質的に日本がどのような国になるべきかなどということは、私が示し得る範疇のものではない」と)

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