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2014年5月21日 (水)

権力者と、それ以外の人々を区別できなくなって来ている人たち

これだけ、世の中が複雑になってくると、政治的な立ち位置というものも、昔のような単純な色分けはしにくくなって来ているのだが、「そういうお前はどうなんだ」と問われれば、「リベラル側の人間だと思ってもらえば良い」ぐらいの返答をするだろうか。
自分の立ち位置を固定化したくはないし、どこかの政治党派に加入するほど、自らを“政治化”したくもない。
ただ、あえて言えば、精神的な自由を最優先するという意味における「自由人」でありたいという願望があるがゆえの「リベラル側」に属するんだろうなという認識はある。
こんなややこしい言い方を始めたのは、他でもない、そのような“リベラルな立ち位置”を共有し得るだろうなと思って、比較的目を通すことが多かったブロガー諸氏の一部に、ある種の容認しがたい傾向が生じて来ているようで、不愉快な思いをすることが多くなって来ているからだ。
自分自身、うまく出来ているか自信はないと言えばないのだが、ただ、一般的なモラルとして、私は、いわゆる権力者と一般人とを、常に分けて考えているつもりだ。
ブログ等で固有名を挙げて、辛辣な批判対象にしても許される人……もちろん「辛辣な批判が許される」といっても、一定の限度は設けられるべきだとも思うし、近年のマスメディアに見られるような組織的な捏造報道や風説報道などもってのほかだが……ともかくも、そのような厳しい批判の対象にしても構わない人とは、やはり、権力者とそれに準じる人に限定されて然るべきだと思っている。
そんな曖昧な基準で良いのか、と言われてしまえば立つ瀬はないと言えばないのだが、それでも、内的に一定の差異線を引いておかなければ、今後、個人を対象とする人権侵害は、拡大こそすれ減少することはないような気がする。
最近の例としてあげるなら、典型的なのは「小保方氏叩き」だろう。
下賤下劣なマスメディアの尻馬に乗るようにして、いわゆるリベラル派だと漠然と想定していたような人々までが、何が癪にさわったのか知らないが、一種異様な剣幕で彼女個人を対象に執拗に誹謗中傷の類いをばら蒔いている。
また、直近の例で言えば、PC遠隔操作事件で“自白”を始めたとされる容疑者についてもそうだ。
“自白”を始めた途端、手のひらを返して、誹謗中傷の雨霰になっているようなブログが散見される。
常日頃、ヒトカドの人間ふうの政治的な主張にしたがって権力者を叩いているのと同じ調子で、突如として「一個人」を祭壇だか断頭台だか知らないが、勝手気ままに上らせて、まさに「人民裁判」を始めてしまうようなブログ。
権力者とは言わないまでも、同じ個人にしたところで「一定の組織を背景にして、その組織の力によって守られることが確実であり、また本人もその自覚をもっている人」と、「頼るべき組織も背景もない人」とでは扱いが違って当然なのではないか。
「小保方氏叩き」に典型的に現れた症状なのだが、まるで彼女が、一定の組織を背景として何らかの力を振るえる人であるかのように、彼女を「悪の権化」であるかのようにみなして中傷を繰り返しては意気揚々としている人がいるが、私には、信じがたい。
もちろん、彼女が理研のユニットリーダーとして、自分の研究だけが素晴らしく、他の研究はまるでダメだというようなことを執拗に繰り返すようなことがあったなら、彼女を強烈な批判対象としてもやぶさかでない面はあるだろう。
実際、彼女がメディアの土俵に華々しく登場してきた時はそのような一面がなきにしもあらずだった。
癪にさわった人々というのは、それを根に持っているのだろうか、しかし、今や彼女は守る者のほとんどいない「一個人」に過ぎない。
そのような情勢の変化も考慮に入れず、どこまでも執拗に叩きつぶしてやるというような偏執を見せる一部の人々がいるが、単純に残念だし、極めて不愉快だ。
片山氏にしても同じで、自分が勝手に捜査当局や司法当局に挑戦状を叩き付けたヒーローのように扱っておきながら、“自白”を始めた途端、突如として手のひら返しをし、権力者の“悪行”を叩くのと同等のレベルで、罵詈雑言を並べ立て始める人がいる。
「だが、ちょっと待ってほしい」
それは、やはり、ちょっと筋が違うのではないか。

このような事例に窺い知れるヒステリックな心理の増殖。
そこからは、私には到底容認しがたい「ヘイトスピーチ・デモ」や「ストーキング・ハラスメント」等に通底する心象を感じ取らざるを得ないのであり、少なくともリベラル派を自認するような人々にとっては踏み越えてはならない一線なのではないか。

確認しておかなければならないのは、「個人」という概念であり、政治権力者ですら、ブライベイトな時間と空間では「個人」に帰るわけなのだが、一般的にメディアによって取り沙汰される人物の中にあっても、どこをどうひっくり返しても「個人」以外の属性に極めて乏しい人と、「個人」であるよりも彼の社会的属性としてある「代表としての立場」だとか「権限や権力の保有者としての立場」の方が圧倒的であるような人とでは、扱いが違って然るべきだろう。
私が、マスメディアに対して最も容認しがたく感じるのは、彼らが「権力」に対峙する覇気も勇気も矜恃も義務感も責任感もないかわりに、スケープゴートとしての「個人」を次から次へと見つけ出して来ては、叩いて潰してみせることだ。
まさに幼稚にして醜悪な「いじめ」と同じ構図であり、それこそが、社会的不健全さの元凶であり源泉ではないかと思う。
少し誰かにほめそやされたり、若干の注目を浴びた程度で、突如としてのぼせあがってしまい、「我こそは正義の守護神」とでも言いたいかのごとく、愚劣マスメディアになりかわって悪を討つみたいな居丈高な姿勢になってしまう人が見受けられるが、滑稽だ。
「個人」として「個人」の資格でブログなりツイッターなりやっているに過ぎないにもかかわらず、事実は徒党を組みたいだけなのではないかという人たち。
もちろん、健全な(何をもって健全とみなすか、これまたむつかしい話になってしまうが)社会運動等に結びつけたいというのなら分かるが、その場合は、最初からそう主張して、組織化を志すべきだろう。
主張が似通う人がいれば、仲間意識が芽生えるのは自然な感情の流れだとしても、だらしない仲間内感情だけで、何かに、とりわけ「個人」に圧力をかけるようなやり方は醜悪だと思うべきだろう。
日本社会がこんなに薄気味悪い社会になってきたのも、そのようなことを平然と、あるいは漠然と、だらだら許容し、「個人」として屹立し続ける価値と不安に向き合って来なかったからにほかなるまい。
(ツイッターというのは、その点、非常にイヤな傾向を促進させる心理的な相乗作用を有していると思う)

「個人」で可能な「悪行」など、たかが知れている。
一方、人間とは「集団的動物」なのであり、人間が徒党を組んでなす悪行(システマチックな悪行)は、ある意味で底無しだ。
そもそもにおいてと言うべきか、「文明」というもの自体、「底無しの悪行」たる可能性をはらんでいる。

だからこそ、西欧近代における「個人」の発見というものは、大きかったのだと考える。
「個人」をないがしろにする者たちは、平然と「衆を恃んで」悪行を働きはじめる。少なくとも、私はそう観測している。

この悪しき傾向を自覚し払拭しないことには、私たちは、安倍政権のような政権を批判する正統性なり根拠なりを失ってしまうのではないか。


今回は、自戒を込めながら、まさにつらつらと記してみた。
本当は、権力批判なんかしているよりも、こういうことの方が大切であり大事なのかも知れない。
「権力」など握る可能性もなければ、握るつもりも、また「権力」などというものに、さして本質的な興味もない人の方が多いのだろうし、そのような人こそ「生活人」であり「生活者」のはずだから。
“リベラルな”私が言っても説得力はないかも知れないが、「生活者」を守れずして/守ろうとせずして、「保守」などという概念は成り立たないだろう。

いい加減で醜い国になり果てたものである。
(訳の分からない掛け声とはうらはらに、この国には、スマートさとクールさとが欠落している点、本当に恥ずかしいと思う)

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コメント

全く同意です。
小保方さん叩きは、日本社会の醜い暗部を見せられたようで、日本と言う国が大好きだったのに、人生半ばにして初めて日本社会を見限ろうかと思うほどの数ヶ月でした。叩いている人は、擁護派はバカだの未だにわめいていますが、論点がそもそも違うことにすら気づいていないようです。

同じように欧米と比べ思想が大きく遅れていることにショックを受けました。自分は、もともとフリーの仕事のため気づいてはいたのですが、ここまで「個」としての意識ができていない人が多いのかと驚くばかりです。「個」としての意識ができていないので、似たような絵があふれ、SNSを海外をぐるっと見回して日本を見ても、やはり異様です。日本人だけ、人の書き込みを集めたような使い方をしてたりで、自分をアピールするなど、「個」を発信している人が少ないのです。今の日本に多いのは、「個」を勘違いした、好き勝手にわめく子供、ですね。

また、小保方さん叩きの人には口の悪い人が多いのも気になりました。その時点で、内容以前の問題になります。信用度ゼロです。もし自分の意見を聞いてほしいのなら、きちんとした言葉で書くべきだと思います。相手が権力者であってもです。

投稿: 通りすがり | 2014年6月21日 (土) 01時11分

コメントありがとうございます。
レスポンスが大変遅くなりまして申し訳ありません。
きちんと読み込んでいただきましたようで、御礼申し上げます。
小保方問題の次は、もっと直接的なセクハラ問題が起きてしまいましたね。どちらも、「個人の尊厳をないがしろにしてやろう」という人が大声を上げていることに絶望的な気分になります。
新たなエントリーで、同調と排除の力学ということをテーマにして書いてみました。
早書きでうまくまとまらず、推敲版などというおかしなエントリーまでしてしまいましたが、よろしければご一読ください。

投稿: にいのり | 2014年6月26日 (木) 19時38分

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