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2014年5月31日 (土)

藤圭子の死が、私たちの身辺文化に問いかけてくるもの

少し前、『訃報ふたつまで』と題して、藤圭子と谷川健一の死を契機とする、私たちを取り巻く文化状況について、若干の歴史的アプローチを試みたことがあったのだが、語るべきことの多様性に目眩がして、精神衛生上、中断している。
だが、最近、話題になっているディズニーアニメの『アナと雪の女王』の主題歌を聴いてみて、ふと一言付け加えてみたくなった。
この曲、曲自体は、非常にエモーショナルな作りになっており、いわゆる西洋音楽のアリア、またロマン派歌曲の後継的楽曲とみなして良いだろう。
とても良い曲だと思うが、曲それ自体に、とりたてて特筆すべき特徴があるわけではない。
ただ、この曲の日本語版を聴いてみて驚かざるを得なかったのが、歌い手のストレートな歌唱力であり、音域の広い曲を、伸びやかな地声で全力で歌い切っているすがすがしさだった。
だからだろう、エモーショナルな曲想でありながら、けっしてウェットにならず、歌詞の内容とあいまって前向きな力強さが聴いている者の心に共振してくる。
最近は、身辺文化の情報を積極的に取りにいくという習慣がなくなってしまったので、この曲も今ごろになって聴いた次第だが、その歌声から、興味は自然と歌い手は誰かということに移った。
調べてみると、歌い手は、女優の松たか子とのこと。
女優として既に十分な名声のある人であり、歌手としてもそれなりのキャリアを積んでおり、そういう意味では、この映画で新たなキャリアアップが図られたと、単純な評価軸ではそのような評価になるのかも知れないが、私はそれだけではおさまらないものをこの歌声に感じさせられた。
ご本人、また業界的にはどう評価されているのか知らないが、この歌を歌うことで、松たか子という人は、新たな才能が開花されたとみても良いのではなかろうか。
ディズニーアニメの日本語版を作るにあたっては、多くの日本人スタッフも参加しているのだろうし、吹き替えに際しての歌も歌える声優のキャスティングというものは、それこそ総力をあげてなされるだろうことは容易に想像できるものの、出来上がってきたものの総合的な完成度=本格性というものには、やはり驚かざるを得ない。
まさに松たか子という才能が完璧に生かされ切っていることに衝撃を受けた形だ。
私が、個人的に、どれだけディズニーという企業や、たとえば代表的キャラクターであるミッキーマウスを嫌っていたとしても、そんな好悪の感情など、ものともしない「本格性」、そしてそういうものを満を持して世に問うてみせる(戦略性というよりも)準備万端さとでもいうもの。こういうものにぶっ飛ばされる感覚は、案外気持ちの良いものだ。
だらだらと、仲間内で傷の舐め合いだか毛繕いだかしている私たちの土壌では、松たか子という才能を、演じ手という側面ではいざ知らず、歌い手という側面では生かしきれていなかった……それがあの映画では、日本のその辺の歌手を生業とする者よりも圧倒的に立派な、間違いなく世界に通用する歌声を披露している……それをディズニーのスタッフがプロデュースしてみせた……このことは、自分たちの身辺文化を考える上において、等閑に付してはならないものだろう。
我が国にも、探せば、いや探さずとも、目の前に「才能」はあるのだろうに、それを本格的にプロデュースする力量のある者がいないこと、ここに彼我の文化的落差というものを痛感せざるを得ない。
「才能」が目の前で準備体操をしているというのに、それを開花させてやることも、もちろん大成させてやることも、リミックスしてやることも出来ない連中が、プロデューサー面してのさばっていることにヘドが出る。
いきなり卑近な事例を出して恐縮だが、我が国の宰相は、ASEANの首脳が集まる晩餐会において、「さあ、エンターテイメントを楽しみましょう」と言いながら、AKBなる子どもたちの集団を披露した由。
エンターテイメントというものをバカにしているから、そういう真似ができるのだし、そういうものをプロデュースして平然としていられるのだ。
そして、そのような者たちが、しけたカネをそれでも産み出すとなれば、業界こぞって「たかり」に走るのが、私たちが持ってしまったマスメディア業界というものなのである。
なぜ、こんなものを、私たちは我慢しながら持ち続けていなくてはならないのだろう。
そして今回、ディズニーは、そういう薄汚い「マスコミ」を当てにしない/相手にしないという戦略を意図的にとったようにみえる。
マスコミが話題にし始めたのは、この映画が既に十分なヒットを達成してからであり、それゆえに、私のような積極的に情報をとりに行かないものは、今ごろになって、はじめて歌を聴いて衝撃を受けるということにもなっている。
事実、これだけのヒットを記録しても、ディズニー側は、松たか子がこの歌をTVメディアで披露することを控えさせているようであり、この国のメディア環境=ガサツなメディア環境というものを、ディズニー側は心憎いまで掌握し切っているとも言えるだろう。
私は、エコノミストとやらが称賛しがちな、計算高さというものを正直毛嫌いしている口なのだが、今回は、「さもしき計算高さ」ではなく「堂々たる計算高さ」と言え、ディズニー側に軍配をあげざるを得ない。
本来なら、ここまでバカにされた卑俗マスメディアの側は、憤慨してみせるのが筋だと思うのだが、カネが流れるところには媚び売り第一の卑俗マスメディア連中は、いかがわしい揉み手をしてみせながら、ご機嫌伺いに馳せ参じ続けるのだろう。
薄汚くも哀れな連中だ。


40年以上も前に、スターダムに押し上げられて、そこまでは良かったとしても、今と全く質の変わらない連中に包囲されて身動きの取れなくなった藤圭子という「才能」を、このようなことがあると、再び想起せざるを得ない。
彼女一人が七転八倒したところで、状況は動くものではなかっただろう。そこにはどうしようもない非対称性が存在したのだから。
そしてその娘、宇多田ヒカルが、インディーズとして一世を風靡して業界を震撼させ、ほどなくして休止宣言をして以降というもの、この国の音楽系のエンターテイメント業界とやらは、それまでもひどかったが、そこに輪をかけて坂道を転がり落ちるように惨憺たる有り様を呈するようになっている。
この惨状を冷ややかに/クールに横目で眺めながら、「キミらさぁ、プロデュースってのは、こういうふうにやるもんなんだよ」と、ディズニーが手本を示しているという構図。
これは、まちがいなく屈辱的事態のはずだ、少なくともメディアを含む関係者にとっては。
だが、我が国のマスメディアは、屈辱を受けているという素振りも見せず(屈辱を受けている自覚すらもしかしたらなく)「儲かっちゃって、儲かっちゃって、笑いが止まらないんでしょう、ディズニーさん」とシナをつくってみせるのだろう。
その、たまらない醜悪さ。

突拍子もない飛躍に取られるかも知れないが、このような落差が生じるのは、畢竟のところ人権意識の差に由来するものなのだ。

そこが、腑に落ち、人口に膾炙されない限りは、私たちのエンターテイメント業界とやらは、接待業界と何ら区別のつかないものとして、今後も推移していくのだろう。
凄まじい話ではないか。

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