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2014年6月

2014年6月26日 (木)

[推敲版] 「同調と排除」(によって我を忘れ迷走する日本人)

男子サッカー日本代表チームが、予想通り惨めな敗北を喫して、W杯の会場から姿を消すことになった。
「なぜ、一勝もできない結果に終わったのか」と言いたくなるところだが、そう言うよりも、「一勝もできない結果に終わる可能性が高くとも、何とかして勝ち上がれと、なぜ、応援している側がそのようなスタンスを取れなかったのか」ということに疑問を呈したい。
先の大戦時に「大本営」は、緒戦においては「勝った、勝った!」と言っては国民を囃し立て、敗色濃厚になってからも「転進、転進!」と言っては国民を欺き、しまいには「玉砕、玉砕!」と、敗けて何が悪いというがごとく、おかしな言葉遊びをしながら卑屈にも開き直って行ったのだった。
冷静に見れば、それは、明らかに狂気の振る舞いであり、どんな弁明も弁解も不可能な集団自殺的な振る舞いに過ぎなかった。
問題は、知的および技術的レベルにおいては、いわゆる世界の最先端にひけをとらないレベルにまで達していた集団が、結果的にどうして自己破壊的、自己破滅的段階にいたる前にその行動や考え方を改めて、合理的なソリューションの方向に“転進”することが出来なかったのかということだ。
この点について、ただ闇雲に非難し中傷するということではなしに、“自らの”あるいは“今の”状況に引き付けて考えてみなければ、外部からもたらされる凍り付きそうな“合理”に翻弄されて、またぞろ安倍晋三とその周辺のように我を失うことは必定だろう。
先の大戦における戦前の日本人にあった「迂闊と傲慢」は、この度のサッカーW杯の戦前の「迂闊と傲慢」に酷似していることに注目してみる。
今回のW杯では、チームの中心選手として、メディアに盛んに登場した選手が、スターシステムにおける“神格化”の過程を念入りに経た上で、「優勝」といった単語をリアリティに満ちた目標であるかのように口にしていた。
本来なら、「目標はあくまでも優勝と口にすることと、優勝が可能なほどの実力があるかのように広言することとは分けられて然るべきではないか」と誰かが言うべきはずだった。
だが、彼の周辺にいる中山ら厳しいことを口にして良いはずのOBや評論家にしても、当然のごとくメディアの記者らにしても、彼の「大言壮語」に息を呑むかのような素振りをしてみせるだけで、「私は優勝に見合うだけの努力はしてきている」と断言する人間の言葉に異論をさしはさむことは、タブーであるかのような“空気”を作り出すことに協力していた。
その結果、形成された“空気”とは何だったのか?
合理的な技術論を口にすることはむしろ野暮であり、「私の優勝してみせるという強い願いに、あなた方は同調するのかしないのか」という過剰な同調圧力が機能することを前提として全てを考えようというものだ。
この同調圧力は、メディアやメディアを通して実態を把握しようとしている一般人のみならず、サッカー協会やOB、評論家、情報伝播者としての芸能人等をも巻き込んで、「異論を唱える人間は排除する」という抑圧となって辺りにばら蒔かれていった。
「同調と排除」の力学。
肝心なところで、必ず作動するこの宿痾と言うべき力学が、結局は今回も何の内省の契機も与えられようとしないまま稼働していったのである。
当然のことながら、この力学の中で抑圧され排除される側こそ、「躍動する個」であり(戦況に応じて戦術を瞬時に変換することのできる)「柔軟な個、フレキシブルな個」のはずだった。そのような「個」は、一見同じ突出した個性のように見えて実は個々を抑圧的に統制しようとする「日本的なスター」からは最も遠いところにいる。
今回、日本代表のイタリア人監督が、灰汁の強いベテラン選手を直前になって招聘したのは、危機感の表明だったのだろうが、このイタリア人監督も抑圧的な力学には結局逆らえ切れなかった。
今回のW杯においても典型的に観察できた、また、今の政界とやらで現在進行形で観察できる、こうした日本人の集団同調主義と個人抑圧主義とは、間違いなく鏡像関係にあるということだろう。
この構造は、日本社会のいたるところ、また日本人個々の精神構造自体にしっかりビルトインされている。
私たち日本人の多くが、この国/この社会では「個人」として自立し屹立している人こそが、もっぱら忌避されている事を経験的に知っている。換言すれば、日本において「個人」は常に村八分にされている。
そのことを経験的に知悉しているがゆえに、私たち日本人は、「個人」とみなされることを恐れ、その場の雰囲気(空気)をひたすら読みつくそうと、集団の合意事項と思われるものを常に忖度し、それにいち早く同調せんとして、いつも戦々恐々としている。
その悪しき代表であることが歴然化した、男子サッカー代表の連中は、ことあるごとに「僕たちの目指すサッカーの形」といった言い方をする。
その「目指すサッカーの形」が集団的合意事項として、かえって個々の手足を縛り、そこから「個人」として突出したり外れてしまったりすることを恐れる余り、精神的に萎縮してしまっている。
良く言えば「公式」、悪く言えば「低劣な常套句」と化した「自分たちのサッカーが表現さえできれば優勝も夢ではない」という集団的合意事項が強いてくる「形/型への嵌め込み」から脱け出せなくなってしまうのだ。
自分たちを生き生きとさせるには、そういう定型至上主義的なものから一歩距離をおいた「飄々とした精神性」が必要だったはずにも関わらず、一歩引こうとした瞬間、そのような「個人」に対しては、徹底的な同調圧力(排除脅迫)が掛かるような仕組みになっている。
外部から見れば、そのような動きが「人権の侵害」に見えるのは当然のことなのだが、同調空間に浸っている者からしてみれば、“同調圧力”は、「良心の発露」なのであり、「秩序維持に不可欠なこと」なのであり、「目標達成のために一丸となるための倫理」なのであり、「個々の役割を徹底させるための最善策」なのであり「絆と呼ばれるものの存在の確認」にほかならないのだ。
(東日本大震災以来、原発事故以来、同じ論理が何度繰り返されたか、自分の胸に手を当てて、ほんの僅かな時間だけ想起してみるだけでお分かりいただけるはずだ)
外部の者からは、人権侵害にしか見えないものが、“こちら側”の者たちにしてみれば“良心の発露”と認識されていようとは、日本の“空気”を共有していない人々にとっては想像を越えたものなのだろうが、日本社会にあっては、そもそも集団や社会とは、個人の相互関係によって成立しているという了解性が成立していない。そのために、一度集団的合意事項として成立した(ように見える)ものから、たった一歩ですら距離を置こうとする行為/表象であっても、それは「絆の切断」すなわち「秩序の破壊行為」とみなされるのである。
この社会にあっては、よって帰属の明白性と優先性/優越性のみが求められるのであり、帰属する集団の価値観に大人しく従っている限り、人権…というか社会的諸権利は篤く保証される。
しかし、どこに帰属しているのか分からない、あるいは当面帰属している集団の“しきたり”から距離を取っている者は、「個人」として敵視され、「人権が剥奪される方向」に、すなわち「社会的に抹殺される方向」に追いやられて行く。
日本社会において「個人」とはだから、敵対すべき、あるいは排除すべき対象に過ぎない。
欧州経由の「人権」とは「個人」に賦与されているはずのものであり、これは、当然一神教の構造とも連関してくるものには違いないだろうが、それは一つの「契機」として捉えられるべきもので、「人権」と「個人」とは論理的には切り離しがたいはずのものだ。これを無理矢理分離してしまうなら、体系自体が崩壊してしまう。
ところが日本人は、「個人」という概念について曖昧なまま継受してしまい、言ってみれば「個人」とは「個体」の事だぐらいに思っていて、社会的存在としての「個人」という概念そのものは、驚くべきほどに受け入れられていないのが実状だ。
ゆえに例えば、個の万華鏡のようなものであるはずのSNSの中にあっても「同調と排除」が主要なテーマになってしまう。
もちろん、このような論理というものは、日本社会にばかり見られるものではなく、共同体主義、過度の集団主義を採ろうとする集合においては、どこでも見られるものであろうが、日本社会にあってはそれが特異な位置を占めてしまっており、欧米思想の継受によってそれが不可視の領域に沈殿しながら、しかし根強く機能している点に問題があるのだ。
さて、見て来たとおり、日本男子サッカー代表がどんな外国人監督を連れて来ても、日本的集団主義の抑圧的雰囲気から逃れられずに七転八倒しているのに比して、選手一人一人が「個人」として認知され、「個人」と「集団」とがうまくバランスし、チームとして動いた場合のシナジー効果が生じているのが、日本女子サッカー代表ではないだろうか。
あのチームを率いている佐々木監督と澤選手のリーダーシップの在り方が、選手個々を過剰な集団主義に陥らせず、萎縮させない方向で下支えしているように見える。
TV画面の中でしか観たことがないので、見当違いかも知れないが、佐々木監督も澤選手も、けっして押し付けがましくないように見える。つまり、彼ら自身が定型や教条にこだわってはいない。
彼ら、謂わば「権力」や「権威」の側が、選手個々を新人からベテランまで「個人」としてきちんと認知してあげているがゆえに、選手個々が「自分らしく伸び伸びやっていいんだ」という安心感を持って動いているように見える
日本人向けのリーダーシップ、日本人向きの個人主義の在り方というものを、私たちは「なでしこジャパン」から沢山学び取れるのではないだろうか。
逆に言えば、実際にうまく機能しているものから学ぶ謙虚さを失ってしまえば、集団主義、共同体主義の中にある良さまで見失ってしまうだろう。
目を覆わんばかりの実例として、私たちは、いわゆる「セクハラ野次事件」をこれ以上追及することなくうやむやにしますと、わざわざ議会で決議してみせる日本の首都東京の議会のように、自らの尊厳を自ら積極的に放棄してみせるような、集団自殺紛いの事例を持ってしまった。
彼らはもう救いようがないが、私たちまで彼らと一緒に奈落に落ちなければならない合理的な理由など一切ないのであり、相応の社会的結論が出されるべきだ。
(余談的にはなるが、「なでしこ」から佐々木監督と澤選手が抜けた時どうなるかについては、社会学、システム論、経営学、文化人類学、政治学等の各種領域、あるいはそれらの横断的領域から見ても、かなり興味深い実例となるのではないだろうか)

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2014年6月25日 (水)

同調と排除(の中で我を失い迷走する日本人)

男子サッカー日本代表チームが、予想通り、惨めな敗北を喫して、W杯の会場から姿を消すことになった。
「なぜ、一勝もできない結果に終わったのか」というよりも、「一勝もできない結果に終わる可能性が高くとも、何とかして勝ち上がれと、なぜ、応援している側がそのようなスタンスを取れなかったのか」ということに疑問を呈したい。
先の大戦時に「大本営」は、緒戦においては「勝った!勝った!」と国民を囃し立て、敗色濃厚になってからも、「転進!転進!」と国民を欺き、しまいには「玉砕!玉砕!」と、敗けて何が悪いというがごとく、おかしな言葉遊びをしながら開き直って行ったのだった。
クールに見れば、それは、明らかに狂気の振る舞いであり、どんな弁明も弁解も不可能な集団自殺的な振る舞いだったのだ。
問題は、知的および技術的レベルにおいては、いわゆる世界の最先端にひけをとらないレベルにまで達していた集団が、結果的にどうして自己破壊的、破滅的段階にいたるまでその行動や考え方を改めて、合理的なソリューションの方向に“転進”することが出来なかったのかということだ。
この点について、ただ闇雲に非難し中傷するということではなしに、“自らの”あるいは“今の”状況に引き付けて考えてみなければ、外部からもたらされる凍り付きそうな“合理”に翻弄されて、またぞろ我を失うことは必定だろう。
先の大戦における戦前の日本人にあった「迂闊と傲慢」は、この度のサッカーW杯の戦前の「迂闊と傲慢」に酷似しているのだ。
今回のW杯では、チームの中心選手として、メディアに盛んに登場した選手が、スターシステムにおける“神格化”の仮定を経た上で、「優勝」といった単語をリアリティに満ちた目標であるかのように口にしていた。
本来なら、「目標はあくまでも優勝と口にすることと、優勝が可能であるなほどの実力があるかのように言うことは分けられて然るべきではないか」と誰かが言うべきはずなのだ。
だが、彼の周辺にいる中山ら厳しいことを口にして良いはずのOBや評論家も、当然のごとくメディアの記者らも、彼の「大言壮語」に過剰な同調をしてみせるのみで、「私は優勝に見合うだけの努力はしてきている」と断言する人間の言葉に異論をさしはさむことは、タブーであるかのような“空気”を作り出すことに協力していた。
そこに形成されていた“空気”とは何か?
合理的な技術論を口にすることはむしろ野暮であり、「私の優勝してみせる強い願いに同調するのかしないのか」という過剰な同調圧力である。
この同調圧力は、メディアやメディアを通して実態を把握しようとしている一般人のみならず、サッカー協会やOB、評論家等をも巻き込んで、「異論を唱える人間は排除する」という抑圧となって辺りにばら蒔かれていった。
「同調と排除」の力学。
肝心なところで、必ず作動するこの宿痾と言うべき力学が、結局は今回も何の内省の契機も与えられようとしないまま稼働していたのである。
当然のことながら、この力学の中で抑圧され排除される側は、「躍動する個」であり(戦況に応じて戦術を瞬間瞬間で変換することのできる)「柔軟な個、フレキシブルな個」だ。そのような「個」は、一見同じ突出した個のようでいて、実は個々を抑圧的に統制しようとする「日本的なスター」からは最も遠いところにいる。
今回、日本代表のイタリア人監督が、灰汁の強いベテラン選手を直前になって招聘したのは、危機感の表明だったのだろうが、このイタリア人監督も抑圧的な力学には結局逆らえ切れなかった。
今回のW杯においても典型的に観察できた、また、現在の政界とやらで現在進行形で観察できる、こうした日本人の集団同調主義と個人抑圧主義とは、間違いなく鏡像関係にあるということだろう。
この構造は、日本社会のいたるところ、また日本人個々の精神構造自体にしっかりビルトインされている。
日本人の多くが、この国/この社会では「個人」として自立し屹立している人こそが、もっぱら忌避される事を経験的に知っている。換言すれば、日本において「個人」は常に村八分にされる。
そのことを経験的に知悉しているがゆえに、私たち日本人は、「個人」とみなされることを恐れ、その場の雰囲気(空気)をひたすら読み、集団の合意事項と思われるものを常に忖度し、それに同調しようといつも戦々恐々としている。
その悪しき代表としての、男子サッカー代表の連中は、ことあるごとに「僕たちの目指すサッカーの形」いうような言い方をする。
「目指すサッカーの形」が集団的合意事項として、かえって個々の手足を縛り、そこから「個人」として突出したり外れてしまったりすることを恐れる余り、精神的に萎縮してしまっている。
良く言えば「公式」、悪く言えば「低劣な常套句」と化した「自分たちのサッカーが表現さえできれば優勝も夢ではない」という集団的合意事項が強いてくる「カタへのはめ込み」から脱け出せなくなってしまうのだ。
自分たちを生き生きとさせるには、そういう定型至上主義的なものから一歩距離をおいた「飄々とした精神性」のはずなのにも関わらず、一歩引こうとした瞬間、そのような「個人」に対しては、徹底的な同調圧力が掛かるような仕組みになっている。
外部から見れば、そのような動きが「人権の侵害」に見えるのは当然なのだが、同調空間に浸っている者からしてみれば、“同調圧力”は「良心の発露」なのであり、「秩序維持に不可欠なこと」なのであり、「目標達成のために一丸となるための倫理」なのであり、「個々の役割を徹底させるための最善策」なのであり「絆の確認」にほかならないのだ。
外部の者からは、人権侵害にしか見えないものが、“こちら側”の者たちにしてみれば“良心の発露”と認識されていようとは、想像を越えたものなのだろうが、日本社会にあっては、そもそも集団や社会とは、個人の相互関係によって成立しているという了解性が成立していないために、一度集団的合意事項として成立した(ように見える)ものから、たった一歩ですら距離を置こうとする行為/表明であっても、それは「絆の破壊」すなわち「秩序の破壊行為」とみなされるのである。
この社会にあっては、よって帰属の明白性と優先性とが求められるのであり、帰属する集団の価値観に大人しく従っている限り、人権…というか社会的権利は篤く保証される。
しかし、どこに帰属しているのか分からない、あるいは当面帰属している集団の“しきたり”から距離を取っている者は、「個人」として敵視される。
日本社会において「個人」とはだから、敵対すべき、あるいは排除すべき対象に過ぎない。
欧州経由の「人権」とは「個人」に賦与されているはずのものであり、これは、当然一神教の構造とも連関してくるものには違いないだろうが、それは一つの「契機」として捉えられるべきもので、「人権」と「個人」とは論理的には切り離しがたいはずのものだ。
これを無理矢理分離してしまうなら、体系自体が崩壊してしまう。
ところが日本人は、「個人」という概念について曖昧なまま継受してしまい、言ってみれば「個人」とは「個体」の事だぐらいに思っていて、社会的存在としての「個人」という概念そのものはは、驚くべきほどに受け入れられていない。
ゆえに例えば、個のカレイドスコープのようなものであるはずのSNSの中でも「同調と排除」が主要なテーマになってしまう。
さて、見て来たとおり、日本男子サッカー代表がどんな外国人監督を連れて来ても、日本的集団主義の抑圧的雰囲気から逃れられずに七転八倒しているのに比して、選手一人一人が「個人」として認知され、「個人」と「集団」とがうまくバランスし、チームとして動いた場合のシナジー効果が生じているのが、日本女子サッカー代表ではないだろうか。
あのチームを率いている佐々木監督と澤選手のリーダーシップの在り方が、選手個々を過剰な集団主義に陥らせず、萎縮させない方向で下支えしているように見える。
TV画面の中でしか観たことがないので、見当違いかも知れないが、佐々木監督も澤選手も、けっして押し付けがましくないように見える。つまり、彼ら自身が定型や教条にこだわってはいない。
彼ら、謂わば「権力」や「権威」の側が、選手個々を新人からベテランまで「個人」としてきちんと認知してあげているがゆえに、選手個々が「自分らしく伸び伸びやっていいんだ」という安心感を持って動いているように見える
日本人向けのリーダーシップ、日本人向きの個人主義の在り方というものを、私たちは「なでしこジャパン」から沢山学び取れるのではないだろうか。
逆に言えば、実際にうまく機能しているものから学ぶ謙虚さを失ってしまえば、集団主義、共同体主義の中にある良さまで見失って、「性的不規則発言事件」をうやむやにすると、わざわざ議会で決議してみせる日本の首都東京の議会のように、自らの尊厳を自ら積極的に放棄してみせるような、集団自殺的行為に走るしかなくなっていくのである。
(余談的にはなるが、「なでしこ」から佐々木監督と澤選手が抜けた時どうなるかについては、社会学、システム論、経営学、文化人類学、政治学等の各種領域、あるいはそれらの横断的領域から見ても、かなり興味深い実例となるのではないだろうか)

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2014年6月23日 (月)

「日本」という名の自己欺瞞(外ヅラばかり気にして、内発的な倫理を確立できなければ、今後、半永久的に疑われ続ける)

明日にでも優勝するかのような前評判の中、ブラジルに向かった「サッカー(男子)日本代表」は、どうしたことだろう(笑)、「大本営」の期待虚しく、目下、一敗一分けの勝ち点1で、予選リーグ突破を期待するのは「奇跡」が起きるのを期待することと同値となり果てた。
なぜ、私たちは、彼ら代表が、明日にも優勝するような気がしていたのだろう?(笑)
もしかしたら、私たちは、巧みに構成された情報による“劇場空間”のようなものの中に“招待”され、その事に浮かれていただけではないのか?
第一戦のコートジボワール戦敗北後、日本の首都、東京渋谷のスクランブル交差点には、代表のユニフォームを着た妙にハイな様子の大集団が、行き交う者たちと交互にハイタッチを繰り返すという文字通りお祭り騒ぎを繰り広げたとのこと。
この人たちは、まさに“招待”されたこと自体に酔いしれるゲスト中のゲストだったのであり、「勝ち負けなど気にせず、劇場空間の中でこのまま浮かれ騒ごう」という重要なメッセージの発信役を担おうとしていたものと思われる。
しかし、世の中ひょんなところから綻びは生じるものであり、「ハイタッチする際にどさくさに紛れて痴漢をされた」というおぞましい報告がSNSによって多数報告・拡散されることになり、警視庁の過剰な泳がせ警備ともあいまって、一気に胡散臭さ全開となってしまったのである。
「浦島太郎」になってしまえば、確かに面白おかしく過ごせるのかも知れないが、あの「浦島太郎物語」の酷薄なところは、太郎自身に何ら瑕疵がないどころか、むしろ彼は模範とされるべき人物であるにも関わらず、結末はあのような“現実”を思い知らされなければならない点にある。
子供のころ、ちゃんと読んで、「え、太郎さん、何で?どうしてこうなるの?」と、分からないながらも一生懸命考えた経験があれば、少なくともいい歳こいて、きらびやかな情報ネオンに惑わされ、目の前で大口を開けている“劇場空間”に吸い込まれていくなどという恥ずかしい真似をしなくても済んだかも知れないのに。
その意味では、祝祭的ハイタッチ空間を、フェイント付き痴漢地獄に変貌せしめた悪人らこそ「悪人正機説」の本質を知らしめるべきメッセンジャーだったのかも知れない。
あまり、冗談が過ぎるのも良くない。
いずれにせよ、いくら商売とはいえ、「大本営」どもは、各国で活躍するスター軍団を擁する日本代表は、史上最強であるかのような幻想を振り撒き続けていたのは確かなのであり、NHKにいたっては、破格の放映権料である400億のうち7割を負担するという暴挙に及んでいるとのこと。
一説によれば、ブラジルW杯の全世界の放映権料が1700億であり、日本の拠出分がその内の400億というのだから、どういう経緯でそうなったのかについては、説明責任が発生しているはずだ。
なぜ、それほど巨額の分担金が発生しなければならなかったのか。
憶測ではあるが、「ニセの現実作り」、情報ネオンに彩られた「劇場空間作り」には、それくらいの資金が必要になると情報支配層によって“合理的に”見積もられたのだろう。
だが、最初から最後までフィクションであるスタジオドラマ作りでもあるまいに、“想定外の”痴漢の出没同様、“想定外の”代表チームの実力不足、というより迫力不足のために、事態はメルトダウンが連鎖する原発でも見ているかのような方向に推移していったのである。
こうなる、ならないとに関わらず、NHKの金の使い方は、国民に対する背任レベルではないのだろうか。
相変わらず“想定外の事態”を想定することの出来ない無能情報エスタブリッシュメント(大本営)の皆さんの滑稽趣味のようなものは、国民に迷惑をかけないではいられない宿痾のようなものであるらしい。
いくら米国でドラえもんの放映を開始しようとも、世界のどこにもドラえもんなどというものは存在しないのだという現実を、彼らはどうして認識しようとしないのだろう。
「ニセの現実作り」をしているつもりで、最も「ニセの現実」に淫してしまっているのが我が国のエスタブリッシュメント層であるようだ。
昔から「ミイラ盗りがミイラになる」と言われている典型的な現象を私たちは苦もなく目撃することが出来ているわけで、その意味ではそういう幸運に感謝すべきなのかも知れない。
あまりのことに、何とかしなければ収まりがつかないとでも思ったのか、突如としてサポーターのゴミ拾いニュースといった「ボロは着てても心は錦」みたいな浪花節が、これみよがしに流された。
いや、それ自体は、少しも悪いことではあるまい。むしろ、立派な日本人らしい心掛けであることは間違いない。
だが、同じ日本人として一言、云わせてもらうなら、負けてゴミ拾いをするのも負けて浮かれ騒ぎ挙げ句の果てには痴漢するのも、同じ日本人の「その場の空気を読んだ結果なされた行為」に過ぎず、一方が一方より倫理的に優れているとか劣っているとかは決して言えない現象なのだということ。
これを自覚せずして、日本人が次のステージに進むことはほぼ不可能であることは歴然としている。

さて、その日本代表がギリシャに引き分けて、やり場のないモンモン感が「空気」の中に漂っている中で勃発したのが、都議会における「セクハラ野次事件(性的虐待不規則発言事件)」だった。
詳細は報道に譲るが、ここにも、今の日本が抱えた宿痾のようなものが、その病痕をさらすことになったと言って良いのではないだろうか。
何よりも、一番大きな問題は、自民党なる政党の自己欺瞞の連鎖が、もはや取り繕い不可能な領域にまで露呈し始めているということなのではないか。
当の自民党執行部は、ストレートには絶対に認めようとはしていない。
しかし、本質は「性差別主義政党」のくせに、普段ごまかしているから、都議会のような問題が噴出して来るのは、もう隠し立てできないだろう。
そればかりか、「性差別主義政党」の上に「民族差別主義政党」のくせに、河野談話なんか出すから、痛いところを突かれるのだ。では「河野談話を検証してみる」などとつまらない挑発までするのは滑稽を通り越してガキの店頭泣きみたいなものか。
その上、「国民軽視、国民酷使型政党」のくせに、あたかも国民政党のような振りをしたがるから、綺麗事と政策目標との調整に自ら苦しみ続けることにもなる。
はたまた「好戦主義、軍事的ソリューション優先主義政党」のくせに、憲法はそのままにして、解釈変更で何とかしますとかヌルいこと言ってるから、することなすことますます歪んでいく。
これらは全て、正常な日本人、日本社会とは掛け離れたところにいるいかがわしい政治集団「自民党」の自己欺瞞に起因する問題と見ずしてどう捉えれば良いのか分からない問題だろう。だが、当の自民党執行部はあくまでもシラを切り続けるつもりでいるようだ。
どんなにシラを切ろうと、「自民党」と名乗る政治集団とその支持者らは、自己欺瞞ばかりしていて「本性」は隠し続けていると、いい加減、日本人の私から見てもそう見えるのだから、まして諸外国においてをや、と言ってもバチは当たるまい。
都議会の「不規則発言事件」の顛末により、うんざり感の中でほとほと思い知った方も多いのではないかと思うが、私たち有権者も、いい加減、何の自己欺瞞もなしに、何が日本としてあり得べき姿なのかを自分の問題として検証しなければ、おかしな「本音」を隠し持った欺瞞政党と同類とみなされなければならなくなる。
いったい自分は
執拗な性差別主義者なのか?
執拗な民族差別主義者なのか?
執拗な好戦主義者なのか?
利己的なだけのお仲間資本主義者なのか?
こう、自問してみて、少しでも躊躇を覚えるのなら、自分の中にある曖昧な選択は排除すべきではないのだろうか。
外ヅラだけを気にし、綺麗事を口にし、自らの本性について内省しようとはせずに、本性を暴かれないための騙しのテクニックだけは駆使し、いつの間にか、その方面にだけは秀でてしまう……こんな事で良かろうはずはないにも関わらず、現実はそのように動いている。
今や、情報化によって「内政即外交の時代」に入っているというのに、トンマな自己欺瞞テクニックでいつまでも通用すると思っている、その鈍感さと醜悪さ。
その噴出口が東京都議会だったことになる。

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