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2014年6月25日 (水)

同調と排除(の中で我を失い迷走する日本人)

男子サッカー日本代表チームが、予想通り、惨めな敗北を喫して、W杯の会場から姿を消すことになった。
「なぜ、一勝もできない結果に終わったのか」というよりも、「一勝もできない結果に終わる可能性が高くとも、何とかして勝ち上がれと、なぜ、応援している側がそのようなスタンスを取れなかったのか」ということに疑問を呈したい。
先の大戦時に「大本営」は、緒戦においては「勝った!勝った!」と国民を囃し立て、敗色濃厚になってからも、「転進!転進!」と国民を欺き、しまいには「玉砕!玉砕!」と、敗けて何が悪いというがごとく、おかしな言葉遊びをしながら開き直って行ったのだった。
クールに見れば、それは、明らかに狂気の振る舞いであり、どんな弁明も弁解も不可能な集団自殺的な振る舞いだったのだ。
問題は、知的および技術的レベルにおいては、いわゆる世界の最先端にひけをとらないレベルにまで達していた集団が、結果的にどうして自己破壊的、破滅的段階にいたるまでその行動や考え方を改めて、合理的なソリューションの方向に“転進”することが出来なかったのかということだ。
この点について、ただ闇雲に非難し中傷するということではなしに、“自らの”あるいは“今の”状況に引き付けて考えてみなければ、外部からもたらされる凍り付きそうな“合理”に翻弄されて、またぞろ我を失うことは必定だろう。
先の大戦における戦前の日本人にあった「迂闊と傲慢」は、この度のサッカーW杯の戦前の「迂闊と傲慢」に酷似しているのだ。
今回のW杯では、チームの中心選手として、メディアに盛んに登場した選手が、スターシステムにおける“神格化”の仮定を経た上で、「優勝」といった単語をリアリティに満ちた目標であるかのように口にしていた。
本来なら、「目標はあくまでも優勝と口にすることと、優勝が可能であるなほどの実力があるかのように言うことは分けられて然るべきではないか」と誰かが言うべきはずなのだ。
だが、彼の周辺にいる中山ら厳しいことを口にして良いはずのOBや評論家も、当然のごとくメディアの記者らも、彼の「大言壮語」に過剰な同調をしてみせるのみで、「私は優勝に見合うだけの努力はしてきている」と断言する人間の言葉に異論をさしはさむことは、タブーであるかのような“空気”を作り出すことに協力していた。
そこに形成されていた“空気”とは何か?
合理的な技術論を口にすることはむしろ野暮であり、「私の優勝してみせる強い願いに同調するのかしないのか」という過剰な同調圧力である。
この同調圧力は、メディアやメディアを通して実態を把握しようとしている一般人のみならず、サッカー協会やOB、評論家等をも巻き込んで、「異論を唱える人間は排除する」という抑圧となって辺りにばら蒔かれていった。
「同調と排除」の力学。
肝心なところで、必ず作動するこの宿痾と言うべき力学が、結局は今回も何の内省の契機も与えられようとしないまま稼働していたのである。
当然のことながら、この力学の中で抑圧され排除される側は、「躍動する個」であり(戦況に応じて戦術を瞬間瞬間で変換することのできる)「柔軟な個、フレキシブルな個」だ。そのような「個」は、一見同じ突出した個のようでいて、実は個々を抑圧的に統制しようとする「日本的なスター」からは最も遠いところにいる。
今回、日本代表のイタリア人監督が、灰汁の強いベテラン選手を直前になって招聘したのは、危機感の表明だったのだろうが、このイタリア人監督も抑圧的な力学には結局逆らえ切れなかった。
今回のW杯においても典型的に観察できた、また、現在の政界とやらで現在進行形で観察できる、こうした日本人の集団同調主義と個人抑圧主義とは、間違いなく鏡像関係にあるということだろう。
この構造は、日本社会のいたるところ、また日本人個々の精神構造自体にしっかりビルトインされている。
日本人の多くが、この国/この社会では「個人」として自立し屹立している人こそが、もっぱら忌避される事を経験的に知っている。換言すれば、日本において「個人」は常に村八分にされる。
そのことを経験的に知悉しているがゆえに、私たち日本人は、「個人」とみなされることを恐れ、その場の雰囲気(空気)をひたすら読み、集団の合意事項と思われるものを常に忖度し、それに同調しようといつも戦々恐々としている。
その悪しき代表としての、男子サッカー代表の連中は、ことあるごとに「僕たちの目指すサッカーの形」いうような言い方をする。
「目指すサッカーの形」が集団的合意事項として、かえって個々の手足を縛り、そこから「個人」として突出したり外れてしまったりすることを恐れる余り、精神的に萎縮してしまっている。
良く言えば「公式」、悪く言えば「低劣な常套句」と化した「自分たちのサッカーが表現さえできれば優勝も夢ではない」という集団的合意事項が強いてくる「カタへのはめ込み」から脱け出せなくなってしまうのだ。
自分たちを生き生きとさせるには、そういう定型至上主義的なものから一歩距離をおいた「飄々とした精神性」のはずなのにも関わらず、一歩引こうとした瞬間、そのような「個人」に対しては、徹底的な同調圧力が掛かるような仕組みになっている。
外部から見れば、そのような動きが「人権の侵害」に見えるのは当然なのだが、同調空間に浸っている者からしてみれば、“同調圧力”は「良心の発露」なのであり、「秩序維持に不可欠なこと」なのであり、「目標達成のために一丸となるための倫理」なのであり、「個々の役割を徹底させるための最善策」なのであり「絆の確認」にほかならないのだ。
外部の者からは、人権侵害にしか見えないものが、“こちら側”の者たちにしてみれば“良心の発露”と認識されていようとは、想像を越えたものなのだろうが、日本社会にあっては、そもそも集団や社会とは、個人の相互関係によって成立しているという了解性が成立していないために、一度集団的合意事項として成立した(ように見える)ものから、たった一歩ですら距離を置こうとする行為/表明であっても、それは「絆の破壊」すなわち「秩序の破壊行為」とみなされるのである。
この社会にあっては、よって帰属の明白性と優先性とが求められるのであり、帰属する集団の価値観に大人しく従っている限り、人権…というか社会的権利は篤く保証される。
しかし、どこに帰属しているのか分からない、あるいは当面帰属している集団の“しきたり”から距離を取っている者は、「個人」として敵視される。
日本社会において「個人」とはだから、敵対すべき、あるいは排除すべき対象に過ぎない。
欧州経由の「人権」とは「個人」に賦与されているはずのものであり、これは、当然一神教の構造とも連関してくるものには違いないだろうが、それは一つの「契機」として捉えられるべきもので、「人権」と「個人」とは論理的には切り離しがたいはずのものだ。
これを無理矢理分離してしまうなら、体系自体が崩壊してしまう。
ところが日本人は、「個人」という概念について曖昧なまま継受してしまい、言ってみれば「個人」とは「個体」の事だぐらいに思っていて、社会的存在としての「個人」という概念そのものはは、驚くべきほどに受け入れられていない。
ゆえに例えば、個のカレイドスコープのようなものであるはずのSNSの中でも「同調と排除」が主要なテーマになってしまう。
さて、見て来たとおり、日本男子サッカー代表がどんな外国人監督を連れて来ても、日本的集団主義の抑圧的雰囲気から逃れられずに七転八倒しているのに比して、選手一人一人が「個人」として認知され、「個人」と「集団」とがうまくバランスし、チームとして動いた場合のシナジー効果が生じているのが、日本女子サッカー代表ではないだろうか。
あのチームを率いている佐々木監督と澤選手のリーダーシップの在り方が、選手個々を過剰な集団主義に陥らせず、萎縮させない方向で下支えしているように見える。
TV画面の中でしか観たことがないので、見当違いかも知れないが、佐々木監督も澤選手も、けっして押し付けがましくないように見える。つまり、彼ら自身が定型や教条にこだわってはいない。
彼ら、謂わば「権力」や「権威」の側が、選手個々を新人からベテランまで「個人」としてきちんと認知してあげているがゆえに、選手個々が「自分らしく伸び伸びやっていいんだ」という安心感を持って動いているように見える
日本人向けのリーダーシップ、日本人向きの個人主義の在り方というものを、私たちは「なでしこジャパン」から沢山学び取れるのではないだろうか。
逆に言えば、実際にうまく機能しているものから学ぶ謙虚さを失ってしまえば、集団主義、共同体主義の中にある良さまで見失って、「性的不規則発言事件」をうやむやにすると、わざわざ議会で決議してみせる日本の首都東京の議会のように、自らの尊厳を自ら積極的に放棄してみせるような、集団自殺的行為に走るしかなくなっていくのである。
(余談的にはなるが、「なでしこ」から佐々木監督と澤選手が抜けた時どうなるかについては、社会学、システム論、経営学、文化人類学、政治学等の各種領域、あるいはそれらの横断的領域から見ても、かなり興味深い実例となるのではないだろうか)

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