« 同調と排除(の中で我を失い迷走する日本人) | トップページ | 〈個の否定〉と〈他者の不在〉が〈問題〉なのだということに、私たちは気付くことが可能か? »

2014年6月26日 (木)

[推敲版] 「同調と排除」(によって我を忘れ迷走する日本人)

男子サッカー日本代表チームが、予想通り惨めな敗北を喫して、W杯の会場から姿を消すことになった。
「なぜ、一勝もできない結果に終わったのか」と言いたくなるところだが、そう言うよりも、「一勝もできない結果に終わる可能性が高くとも、何とかして勝ち上がれと、なぜ、応援している側がそのようなスタンスを取れなかったのか」ということに疑問を呈したい。
先の大戦時に「大本営」は、緒戦においては「勝った、勝った!」と言っては国民を囃し立て、敗色濃厚になってからも「転進、転進!」と言っては国民を欺き、しまいには「玉砕、玉砕!」と、敗けて何が悪いというがごとく、おかしな言葉遊びをしながら卑屈にも開き直って行ったのだった。
冷静に見れば、それは、明らかに狂気の振る舞いであり、どんな弁明も弁解も不可能な集団自殺的な振る舞いに過ぎなかった。
問題は、知的および技術的レベルにおいては、いわゆる世界の最先端にひけをとらないレベルにまで達していた集団が、結果的にどうして自己破壊的、自己破滅的段階にいたる前にその行動や考え方を改めて、合理的なソリューションの方向に“転進”することが出来なかったのかということだ。
この点について、ただ闇雲に非難し中傷するということではなしに、“自らの”あるいは“今の”状況に引き付けて考えてみなければ、外部からもたらされる凍り付きそうな“合理”に翻弄されて、またぞろ安倍晋三とその周辺のように我を失うことは必定だろう。
先の大戦における戦前の日本人にあった「迂闊と傲慢」は、この度のサッカーW杯の戦前の「迂闊と傲慢」に酷似していることに注目してみる。
今回のW杯では、チームの中心選手として、メディアに盛んに登場した選手が、スターシステムにおける“神格化”の過程を念入りに経た上で、「優勝」といった単語をリアリティに満ちた目標であるかのように口にしていた。
本来なら、「目標はあくまでも優勝と口にすることと、優勝が可能なほどの実力があるかのように広言することとは分けられて然るべきではないか」と誰かが言うべきはずだった。
だが、彼の周辺にいる中山ら厳しいことを口にして良いはずのOBや評論家にしても、当然のごとくメディアの記者らにしても、彼の「大言壮語」に息を呑むかのような素振りをしてみせるだけで、「私は優勝に見合うだけの努力はしてきている」と断言する人間の言葉に異論をさしはさむことは、タブーであるかのような“空気”を作り出すことに協力していた。
その結果、形成された“空気”とは何だったのか?
合理的な技術論を口にすることはむしろ野暮であり、「私の優勝してみせるという強い願いに、あなた方は同調するのかしないのか」という過剰な同調圧力が機能することを前提として全てを考えようというものだ。
この同調圧力は、メディアやメディアを通して実態を把握しようとしている一般人のみならず、サッカー協会やOB、評論家、情報伝播者としての芸能人等をも巻き込んで、「異論を唱える人間は排除する」という抑圧となって辺りにばら蒔かれていった。
「同調と排除」の力学。
肝心なところで、必ず作動するこの宿痾と言うべき力学が、結局は今回も何の内省の契機も与えられようとしないまま稼働していったのである。
当然のことながら、この力学の中で抑圧され排除される側こそ、「躍動する個」であり(戦況に応じて戦術を瞬時に変換することのできる)「柔軟な個、フレキシブルな個」のはずだった。そのような「個」は、一見同じ突出した個性のように見えて実は個々を抑圧的に統制しようとする「日本的なスター」からは最も遠いところにいる。
今回、日本代表のイタリア人監督が、灰汁の強いベテラン選手を直前になって招聘したのは、危機感の表明だったのだろうが、このイタリア人監督も抑圧的な力学には結局逆らえ切れなかった。
今回のW杯においても典型的に観察できた、また、今の政界とやらで現在進行形で観察できる、こうした日本人の集団同調主義と個人抑圧主義とは、間違いなく鏡像関係にあるということだろう。
この構造は、日本社会のいたるところ、また日本人個々の精神構造自体にしっかりビルトインされている。
私たち日本人の多くが、この国/この社会では「個人」として自立し屹立している人こそが、もっぱら忌避されている事を経験的に知っている。換言すれば、日本において「個人」は常に村八分にされている。
そのことを経験的に知悉しているがゆえに、私たち日本人は、「個人」とみなされることを恐れ、その場の雰囲気(空気)をひたすら読みつくそうと、集団の合意事項と思われるものを常に忖度し、それにいち早く同調せんとして、いつも戦々恐々としている。
その悪しき代表であることが歴然化した、男子サッカー代表の連中は、ことあるごとに「僕たちの目指すサッカーの形」といった言い方をする。
その「目指すサッカーの形」が集団的合意事項として、かえって個々の手足を縛り、そこから「個人」として突出したり外れてしまったりすることを恐れる余り、精神的に萎縮してしまっている。
良く言えば「公式」、悪く言えば「低劣な常套句」と化した「自分たちのサッカーが表現さえできれば優勝も夢ではない」という集団的合意事項が強いてくる「形/型への嵌め込み」から脱け出せなくなってしまうのだ。
自分たちを生き生きとさせるには、そういう定型至上主義的なものから一歩距離をおいた「飄々とした精神性」が必要だったはずにも関わらず、一歩引こうとした瞬間、そのような「個人」に対しては、徹底的な同調圧力(排除脅迫)が掛かるような仕組みになっている。
外部から見れば、そのような動きが「人権の侵害」に見えるのは当然のことなのだが、同調空間に浸っている者からしてみれば、“同調圧力”は、「良心の発露」なのであり、「秩序維持に不可欠なこと」なのであり、「目標達成のために一丸となるための倫理」なのであり、「個々の役割を徹底させるための最善策」なのであり「絆と呼ばれるものの存在の確認」にほかならないのだ。
(東日本大震災以来、原発事故以来、同じ論理が何度繰り返されたか、自分の胸に手を当てて、ほんの僅かな時間だけ想起してみるだけでお分かりいただけるはずだ)
外部の者からは、人権侵害にしか見えないものが、“こちら側”の者たちにしてみれば“良心の発露”と認識されていようとは、日本の“空気”を共有していない人々にとっては想像を越えたものなのだろうが、日本社会にあっては、そもそも集団や社会とは、個人の相互関係によって成立しているという了解性が成立していない。そのために、一度集団的合意事項として成立した(ように見える)ものから、たった一歩ですら距離を置こうとする行為/表象であっても、それは「絆の切断」すなわち「秩序の破壊行為」とみなされるのである。
この社会にあっては、よって帰属の明白性と優先性/優越性のみが求められるのであり、帰属する集団の価値観に大人しく従っている限り、人権…というか社会的諸権利は篤く保証される。
しかし、どこに帰属しているのか分からない、あるいは当面帰属している集団の“しきたり”から距離を取っている者は、「個人」として敵視され、「人権が剥奪される方向」に、すなわち「社会的に抹殺される方向」に追いやられて行く。
日本社会において「個人」とはだから、敵対すべき、あるいは排除すべき対象に過ぎない。
欧州経由の「人権」とは「個人」に賦与されているはずのものであり、これは、当然一神教の構造とも連関してくるものには違いないだろうが、それは一つの「契機」として捉えられるべきもので、「人権」と「個人」とは論理的には切り離しがたいはずのものだ。これを無理矢理分離してしまうなら、体系自体が崩壊してしまう。
ところが日本人は、「個人」という概念について曖昧なまま継受してしまい、言ってみれば「個人」とは「個体」の事だぐらいに思っていて、社会的存在としての「個人」という概念そのものは、驚くべきほどに受け入れられていないのが実状だ。
ゆえに例えば、個の万華鏡のようなものであるはずのSNSの中にあっても「同調と排除」が主要なテーマになってしまう。
もちろん、このような論理というものは、日本社会にばかり見られるものではなく、共同体主義、過度の集団主義を採ろうとする集合においては、どこでも見られるものであろうが、日本社会にあってはそれが特異な位置を占めてしまっており、欧米思想の継受によってそれが不可視の領域に沈殿しながら、しかし根強く機能している点に問題があるのだ。
さて、見て来たとおり、日本男子サッカー代表がどんな外国人監督を連れて来ても、日本的集団主義の抑圧的雰囲気から逃れられずに七転八倒しているのに比して、選手一人一人が「個人」として認知され、「個人」と「集団」とがうまくバランスし、チームとして動いた場合のシナジー効果が生じているのが、日本女子サッカー代表ではないだろうか。
あのチームを率いている佐々木監督と澤選手のリーダーシップの在り方が、選手個々を過剰な集団主義に陥らせず、萎縮させない方向で下支えしているように見える。
TV画面の中でしか観たことがないので、見当違いかも知れないが、佐々木監督も澤選手も、けっして押し付けがましくないように見える。つまり、彼ら自身が定型や教条にこだわってはいない。
彼ら、謂わば「権力」や「権威」の側が、選手個々を新人からベテランまで「個人」としてきちんと認知してあげているがゆえに、選手個々が「自分らしく伸び伸びやっていいんだ」という安心感を持って動いているように見える
日本人向けのリーダーシップ、日本人向きの個人主義の在り方というものを、私たちは「なでしこジャパン」から沢山学び取れるのではないだろうか。
逆に言えば、実際にうまく機能しているものから学ぶ謙虚さを失ってしまえば、集団主義、共同体主義の中にある良さまで見失ってしまうだろう。
目を覆わんばかりの実例として、私たちは、いわゆる「セクハラ野次事件」をこれ以上追及することなくうやむやにしますと、わざわざ議会で決議してみせる日本の首都東京の議会のように、自らの尊厳を自ら積極的に放棄してみせるような、集団自殺紛いの事例を持ってしまった。
彼らはもう救いようがないが、私たちまで彼らと一緒に奈落に落ちなければならない合理的な理由など一切ないのであり、相応の社会的結論が出されるべきだ。
(余談的にはなるが、「なでしこ」から佐々木監督と澤選手が抜けた時どうなるかについては、社会学、システム論、経営学、文化人類学、政治学等の各種領域、あるいはそれらの横断的領域から見ても、かなり興味深い実例となるのではないだろうか)

|

« 同調と排除(の中で我を失い迷走する日本人) | トップページ | 〈個の否定〉と〈他者の不在〉が〈問題〉なのだということに、私たちは気付くことが可能か? »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1182932/56613263

この記事へのトラックバック一覧です: [推敲版] 「同調と排除」(によって我を忘れ迷走する日本人):

« 同調と排除(の中で我を失い迷走する日本人) | トップページ | 〈個の否定〉と〈他者の不在〉が〈問題〉なのだということに、私たちは気付くことが可能か? »