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2014年6月23日 (月)

「日本」という名の自己欺瞞(外ヅラばかり気にして、内発的な倫理を確立できなければ、今後、半永久的に疑われ続ける)

明日にでも優勝するかのような前評判の中、ブラジルに向かった「サッカー(男子)日本代表」は、どうしたことだろう(笑)、「大本営」の期待虚しく、目下、一敗一分けの勝ち点1で、予選リーグ突破を期待するのは「奇跡」が起きるのを期待することと同値となり果てた。
なぜ、私たちは、彼ら代表が、明日にも優勝するような気がしていたのだろう?(笑)
もしかしたら、私たちは、巧みに構成された情報による“劇場空間”のようなものの中に“招待”され、その事に浮かれていただけではないのか?
第一戦のコートジボワール戦敗北後、日本の首都、東京渋谷のスクランブル交差点には、代表のユニフォームを着た妙にハイな様子の大集団が、行き交う者たちと交互にハイタッチを繰り返すという文字通りお祭り騒ぎを繰り広げたとのこと。
この人たちは、まさに“招待”されたこと自体に酔いしれるゲスト中のゲストだったのであり、「勝ち負けなど気にせず、劇場空間の中でこのまま浮かれ騒ごう」という重要なメッセージの発信役を担おうとしていたものと思われる。
しかし、世の中ひょんなところから綻びは生じるものであり、「ハイタッチする際にどさくさに紛れて痴漢をされた」というおぞましい報告がSNSによって多数報告・拡散されることになり、警視庁の過剰な泳がせ警備ともあいまって、一気に胡散臭さ全開となってしまったのである。
「浦島太郎」になってしまえば、確かに面白おかしく過ごせるのかも知れないが、あの「浦島太郎物語」の酷薄なところは、太郎自身に何ら瑕疵がないどころか、むしろ彼は模範とされるべき人物であるにも関わらず、結末はあのような“現実”を思い知らされなければならない点にある。
子供のころ、ちゃんと読んで、「え、太郎さん、何で?どうしてこうなるの?」と、分からないながらも一生懸命考えた経験があれば、少なくともいい歳こいて、きらびやかな情報ネオンに惑わされ、目の前で大口を開けている“劇場空間”に吸い込まれていくなどという恥ずかしい真似をしなくても済んだかも知れないのに。
その意味では、祝祭的ハイタッチ空間を、フェイント付き痴漢地獄に変貌せしめた悪人らこそ「悪人正機説」の本質を知らしめるべきメッセンジャーだったのかも知れない。
あまり、冗談が過ぎるのも良くない。
いずれにせよ、いくら商売とはいえ、「大本営」どもは、各国で活躍するスター軍団を擁する日本代表は、史上最強であるかのような幻想を振り撒き続けていたのは確かなのであり、NHKにいたっては、破格の放映権料である400億のうち7割を負担するという暴挙に及んでいるとのこと。
一説によれば、ブラジルW杯の全世界の放映権料が1700億であり、日本の拠出分がその内の400億というのだから、どういう経緯でそうなったのかについては、説明責任が発生しているはずだ。
なぜ、それほど巨額の分担金が発生しなければならなかったのか。
憶測ではあるが、「ニセの現実作り」、情報ネオンに彩られた「劇場空間作り」には、それくらいの資金が必要になると情報支配層によって“合理的に”見積もられたのだろう。
だが、最初から最後までフィクションであるスタジオドラマ作りでもあるまいに、“想定外の”痴漢の出没同様、“想定外の”代表チームの実力不足、というより迫力不足のために、事態はメルトダウンが連鎖する原発でも見ているかのような方向に推移していったのである。
こうなる、ならないとに関わらず、NHKの金の使い方は、国民に対する背任レベルではないのだろうか。
相変わらず“想定外の事態”を想定することの出来ない無能情報エスタブリッシュメント(大本営)の皆さんの滑稽趣味のようなものは、国民に迷惑をかけないではいられない宿痾のようなものであるらしい。
いくら米国でドラえもんの放映を開始しようとも、世界のどこにもドラえもんなどというものは存在しないのだという現実を、彼らはどうして認識しようとしないのだろう。
「ニセの現実作り」をしているつもりで、最も「ニセの現実」に淫してしまっているのが我が国のエスタブリッシュメント層であるようだ。
昔から「ミイラ盗りがミイラになる」と言われている典型的な現象を私たちは苦もなく目撃することが出来ているわけで、その意味ではそういう幸運に感謝すべきなのかも知れない。
あまりのことに、何とかしなければ収まりがつかないとでも思ったのか、突如としてサポーターのゴミ拾いニュースといった「ボロは着てても心は錦」みたいな浪花節が、これみよがしに流された。
いや、それ自体は、少しも悪いことではあるまい。むしろ、立派な日本人らしい心掛けであることは間違いない。
だが、同じ日本人として一言、云わせてもらうなら、負けてゴミ拾いをするのも負けて浮かれ騒ぎ挙げ句の果てには痴漢するのも、同じ日本人の「その場の空気を読んだ結果なされた行為」に過ぎず、一方が一方より倫理的に優れているとか劣っているとかは決して言えない現象なのだということ。
これを自覚せずして、日本人が次のステージに進むことはほぼ不可能であることは歴然としている。

さて、その日本代表がギリシャに引き分けて、やり場のないモンモン感が「空気」の中に漂っている中で勃発したのが、都議会における「セクハラ野次事件(性的虐待不規則発言事件)」だった。
詳細は報道に譲るが、ここにも、今の日本が抱えた宿痾のようなものが、その病痕をさらすことになったと言って良いのではないだろうか。
何よりも、一番大きな問題は、自民党なる政党の自己欺瞞の連鎖が、もはや取り繕い不可能な領域にまで露呈し始めているということなのではないか。
当の自民党執行部は、ストレートには絶対に認めようとはしていない。
しかし、本質は「性差別主義政党」のくせに、普段ごまかしているから、都議会のような問題が噴出して来るのは、もう隠し立てできないだろう。
そればかりか、「性差別主義政党」の上に「民族差別主義政党」のくせに、河野談話なんか出すから、痛いところを突かれるのだ。では「河野談話を検証してみる」などとつまらない挑発までするのは滑稽を通り越してガキの店頭泣きみたいなものか。
その上、「国民軽視、国民酷使型政党」のくせに、あたかも国民政党のような振りをしたがるから、綺麗事と政策目標との調整に自ら苦しみ続けることにもなる。
はたまた「好戦主義、軍事的ソリューション優先主義政党」のくせに、憲法はそのままにして、解釈変更で何とかしますとかヌルいこと言ってるから、することなすことますます歪んでいく。
これらは全て、正常な日本人、日本社会とは掛け離れたところにいるいかがわしい政治集団「自民党」の自己欺瞞に起因する問題と見ずしてどう捉えれば良いのか分からない問題だろう。だが、当の自民党執行部はあくまでもシラを切り続けるつもりでいるようだ。
どんなにシラを切ろうと、「自民党」と名乗る政治集団とその支持者らは、自己欺瞞ばかりしていて「本性」は隠し続けていると、いい加減、日本人の私から見てもそう見えるのだから、まして諸外国においてをや、と言ってもバチは当たるまい。
都議会の「不規則発言事件」の顛末により、うんざり感の中でほとほと思い知った方も多いのではないかと思うが、私たち有権者も、いい加減、何の自己欺瞞もなしに、何が日本としてあり得べき姿なのかを自分の問題として検証しなければ、おかしな「本音」を隠し持った欺瞞政党と同類とみなされなければならなくなる。
いったい自分は
執拗な性差別主義者なのか?
執拗な民族差別主義者なのか?
執拗な好戦主義者なのか?
利己的なだけのお仲間資本主義者なのか?
こう、自問してみて、少しでも躊躇を覚えるのなら、自分の中にある曖昧な選択は排除すべきではないのだろうか。
外ヅラだけを気にし、綺麗事を口にし、自らの本性について内省しようとはせずに、本性を暴かれないための騙しのテクニックだけは駆使し、いつの間にか、その方面にだけは秀でてしまう……こんな事で良かろうはずはないにも関わらず、現実はそのように動いている。
今や、情報化によって「内政即外交の時代」に入っているというのに、トンマな自己欺瞞テクニックでいつまでも通用すると思っている、その鈍感さと醜悪さ。
その噴出口が東京都議会だったことになる。

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