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2014年7月

2014年7月18日 (金)

サッカーW杯:「最も美しい敗者と最も醜い勝者」

そもそも『誰がために鐘は鳴る』で、米国人作家のヘミングウェイは、何を描写しようとしたのだろう。
彼は、もしかしたら「最も麗しい敗者」というものを、米国人なのにも関わらず、あるいはそれゆえにこそ、あますことなく描写しつくしたいと願っていたのではなかろうか。
クリント・イーストウッドにせよ、あるいはジョン・ダワーにせよ、北米のあの地には、敗者に対しても、単なる同情ではない、言ってみれば「分析的共感覚」を描写し得る優れた人々が、ごく僅かながらも存在する。
ヘミングウェイとは、そんな彼らの兄貴分のような存在なのだと言ってみても、当たらずとも遠からずというところではないだろうか。
私のような人間は、嗜好としては、米・大陸的寛容よりも、英・島国的辛辣の方が性に合うのだけれど、世界がこれだけささくれだってくると、「グローバル化」なるものの中から、米・大陸的寛容がまったく顧みられることもなく排除されている事に、今更ながら驚かざるを得ない。
さて、私は今、ヘミングウェイの描き出した主人公について「最も麗しい敗者」と、あえて「麗しい」という形容詞を用いてみた。
正直、我ながらあざといかなと思いつつ、「最も麗しい敗者」に米国の寛容の精神が視線を注ぐのだとすれば、「最も美しい敗者」に視線を注ぐのは、日本の「もののあはれ」の精神の独壇場ではないかと言ってみたかったからだ。
もっとも、現代日本人にあって、「もののあはれ」などということに関心を寄せるのは、一部の変わり者ということに既に相場は決まっている。
我々の、今の、“相場のメインストリーム”は、米国のもう一つの側面から絶え間なく押し寄せてくる「勝者総取りとその自己正当化の心得」にほかならない。
本来なら(とあえて言うが)、日本人には最も馴染みにくいはずのそんな「美しくない考え方」が、しかし今や日本を席巻しようとしている。
私たちは、今や『平家物語』冒頭の「奢れる者もまた久しからず」というフレーズを、倫理から見た非難の評言とみなしてしまうほどだ。
しかし、“本来的には”どうなのだろう。
『理(ことわり)』に「美」を見出だす、あるいは、「理」と「美」とは、分かちがたいものとみなす精神、それが日本人が育んできた、あるいは育もうとしてきた態度でありセンスではなかったか。
それは、だから、同情することでもなければ同調することでもなく、もちろん、裁断することでもなければ裁定することでもない。

「ひとへに敗北といへども、美しきものと醜きものとあり。ひとへに勝利といへども、美しきものと醜きものとあり。美しからざるもの、すべてこれ理に反するものなれば、たとへ目を見張らんばかりの勝利を手中におさめんときも、奢ることなかるべし、それ醜きさまにほかなかりければ」

と、前口上を述べているつもりが、一気に結論に達してしまった感があるが、前回のエントリーで、今度のW杯で「最も美しい敗北者」として讃えられるべきだと思い、一生懸命地球の裏側のブラジル代表のことを思っていたころ、西方の大陸では、「最も醜い勝利者」が「こちらを見よ」とばかり、騒々しい名乗りを上げていたようなのだ。
(これはいったいどういうことなのか、どういうかぜのふきまわしなのか)

報道を要約すれば次のようだ。
『サッカーW杯で優勝したドイツ代表チームは、祝賀会の会場となったブランデンブルグ門の特設ステージで、有名選手を含む6人が肩を組んでかがみながら歩き、「ガウチョはこう歩く」と歌いながらステージ中央に向かい、続けざまに「ドイツ人はこう歩く」と腰と背筋をピンと伸ばして歩いてみせたとのこと』

これだけで十分だろう。

「誇りと栄光」を、瞬く間に「顰蹙と恥辱」に変換してみせるという本職のサッカーですら見せたことのない、まさに超人的な技を世界に向けて披露してみせたこの6人のドイツ人は、「最も醜い勝利者」として、長くその偉業を語り継がれるべきだろう。
SNSで「ドイツにまだ人種差別が生きていることを全世界に中継してくれてありがとう」なるメッセージを贈った美的センスに優れたドイツ人もいるようだが、「夏の夜の夢」もここまで滑稽で醜悪なものになってしまうと、『ドイツ代表物語』を美しくも生々しい琵琶の音色とともに謡ってくれるような語り部も現れてくれそうにない。

ブラジルチームが、今後に向けて一から対策を練り直さなければならない必要に駆られているのだとしても、その「誠実な、悲惨なまでに誠実な、美しき敗北ぶり」を際立たせ、引き立てる役割を演じることになったドイツチームは、最後の最後に来て、「2014年、FIFAワールドカップの真の敗残者」に決定したと言える。

FIFAは、手をこまねいておらずに、この栄光あるドイツチームに、「真の敗残者」という文字の刻まれたトロフィーを贈呈することを検討すべきだ。

そうでなければ、「誰のためのW杯なのか?」という問いかけが、少しずつ世界中に浸透していくことを阻止するのは、困難をきわめることになるかも知れない。

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2014年7月16日 (水)

「誰がためのW杯なのか?」という問い掛けに最も苦しんでいたのはブラジルの選手たちではないか?

『誰がために鐘は鳴る』といえば旧き良き(?)米国の小説家ヘミングウェイの小説だが、「誰がためのW杯なのか」と、ブラジル人の口から聞かされることになるとは実際に報道されてみるまでは想像だにしていなかった。
ブラジルの貧富の格差が激しいことぐらいは知っていたし、近年は、新自由主義的な思潮とともに経済成長のためのいろんな無理な動きをしているらしいことも、ぼんやりとだが知っていた。
しかし、そうではあっても、サッカーのW杯の自国開催ともなれば、細かいことには目を瞑り、とりあえずは楽しもうとするのがブラジル人というもののような気がしていた。
もちろん、これは、要するに偏見なのだ。
「サッカー王国ブラジル」、「ブラジル人はみんなサッカーが大好き」
もちろん、これも、嘘ではないだろう。
だが、レッテルというものは、それがどんなレッテルであろうと、真実の一面を表しているに過ぎない。
世界で起きている様々な出来事について、自分なりに消化しながら掌握していたいのであれば、そんなことは当然のこととしてわきまえていなければならない。
わきまえていなければならないということを“知って”いるにも関わらず、しかし、分かりやすいレッテル/指標/データ/スローガン/物語の方に無意識のうちに引きずられているのもまた人間というものだ。
人間というものの弱さだ。
もし、私たちのような一般人が、それでもそれなりの情報リテラシーを身に付けていたいのなら、そういうこともまた“知って”いなければならない。
そのような「構え」が日常的に身に馴染んでいれば、少なくとも、日本代表を過剰評価するなどという恥ずかしい経験もしなくて済むということだ。
いや、ここでは日本代表など、どうでもいい。
問題は、ブラジルのあの歴史的な負けっぷりである。
「誰がためのW杯なのか?」
そして、「誰のためのW杯にしなければならないか」ということを、誰よりも過剰に意識し、誰よりも強い責任感とともに背負っていたのは、きっと、というより間違いなく、ブラジル代表選手たちだったろう。

自国開催とはいえ、試合会場の中にいた人の多くは、中流以上のブラジル人だったようだ。
だが、(細かなデータは持っていないものの)ネイマールにせよ誰にせよ、ブラジル代表選手には必ずしも恵まれた環境の中で成長してきたわけではない者も多いだろう。
そのような彼らが、ピッチの中でブラジル代表としてどう振る舞うのか、どう振る舞えばいいのか。

「単に勝つだけでは足りないものを背負ってしまった者たち」

つい、そんな感想が頭をよぎる。

対チリ戦で、PKまでもつれ込んでやっと勝利を決めた瞬間、ネイマールは膝から崩れ落ち涙していた。
ブラジルは優勝候補の一画という前評判だったが、彼ら自身は試合をしながらどう感じていたのだろうか。
特にネイマールは、自分に信じられないほどの負担がかかる中で何を思い戦っていたのだろうか。
少なくとも、その一端が、崩れ落ちたあの姿に示されていた。

「誰のためのW杯にしなければならないのか?」

彼らは、その問いの中で、恐らく精神的には既に一杯一杯だったのではないだろうか。
しかし、彼らは彼らのその誠実さを誇りにして良いのではないかと思う。
けっして口にはできない「誰のためのW杯にしなければならないのか」という問いの中で、彼らは目一杯戦い、ネイマールのアクシデントとドイツ戦の早い段階の出来事とで、まさに張りつめていた糸がブッツリと切れた姿をさらけ出してしまった。
だが、それは、単にサッカーという次元を越えたある「価値」を現出させようと、ある意味では絶望的な試みをしていた、どこまでも誠実な、リスペクトされるべき姿ではなかったか。

優勝は絶対条件だった。
だが、優勝したところで、「誰がためのW杯なのか」という問いが消えるわけではないことを彼らは知っていた。

そんな中で
「最低限の優勝すら出来ないことを彼らが悟ったとき、彼らは真っ白になって、これ以上どうすれば良いのか分からなくなっていたのだ」

その姿は、だが限りなく尊いものだったと言うべきだろう。


ブリジルは、これで、2年後には、リオでオリンピックをやるのだという。

何か、あまり良い予感はしない。

そして東京は6年後にオリンピックをやるのだという。
綺麗事だけのオリンピックが今から目に見えるようだ。
自分たちの醜さを偽るその深度に反比例する上辺だけの「おもてなしシティ東京」が世界の人たちを迎えることになるのだろう。

「誰がために五輪旗は翻る」てなもんで、うそうそしい寒々しい予感しかしない。

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2014年7月 8日 (火)

羽生結弦選手を守るために必要なこと

羽生選手と周辺のスタッフが、NHKなる集団に取り囲まれて、何とかいう震災復興キャンペーンソングをバックに、フィギュアスケートを滑ることになったようです。

……と、こういう紹介の仕方は、おかしな言葉遣いになってしまうのでしょうか?

「NHKなる集団」とは何事か。
「取り囲まれて」とは、どういう言いぐさか。
「何とかいう震災復興キャンペーンソング」とはまた聞き捨てならない表現だ。

NHK関係者ならずとも、一般的には、そのように受け取られてしまってもやむを得ないところが、やはりこのような表現にはあるでしょうか?

だが、羽生選手が「オレオレ詐欺」同然の仕打ちに、今、遇いつつあるのだとすれば、事態は急を要するのです。
そのことを周辺のスタッフや少なくともファンを自称される方々が分かってあげられなければ、羽生選手のみならず、今後、どんな立派な人物が世に出て来ようとも、同じようなことがいつでもどこでも繰り返されて行ってしまうのです。

羽生選手は、自身も被災者であり、それゆえ、こうして金メダリストとなった今、被災者のため被災地のために何かしてあげられることはないかと、彼が真剣に思うことは、まさに崇高とすら呼ぶべき心掛けだとは思います。

けれども、もし、羽生選手のその思いを本当に大切にしたいのなら、私たちはむしろこれ以上甘えていてはいけないのではないでしょうか?
もちろん、私など被災者でも何でもないわけですから、「私たち」などと一括りにするなと言われてしまえば、なかなか二の句をつげない面もあるのですが、しかしあえて「私たち」という言葉を使わせていただくなら、私たちは既に十分に羽生選手の活躍から多くの喜び、多くの精神的解放、多くの精神的エネルギーをもらっているはずだと思うのです。

羽生選手にしてみれば、オリンピックは何よりも自分が金メダルを取ることを第一に滑ったのだったが、この機会に、何か純粋に人様のためになることをしたいという強い意欲を持っているんだということでしょうし、その気持ちは傍目に見ても良く分かります。
実際、人格に優れた立派な人ほどそのように考えるのであり、そのような気持ちのあり方は、まさに崇高なものとして讃えられるべきです。
そしておそらく、「慈悲」の作用とはそのようなものなのですが、そのように「思っている」ということが伝わりさえすれば、本来はそれで十分なのであり、私たちはそれ以上の余計な要求をすべきではないのではないか。

これ以上の要求ばかりをするのでは、「贈与交換の原理または倫理」から外れてしまうのではないかと、私はそういうことをここで言いたいわけです。

現に、私たちは、羽生選手から、たくさんのギフトを受け取りました。
であれば、そのお返しをすべき番は私たちなのですが、仮に私たちが余りにも無力で何のお返しも出来ないとするなら、
「次回、また、オリンピックに出て優秀な成績をおさめられるよう見守りますよ」
「どんなことがあってもまた応援することを約束しますよ。ですから、静かにそして着実に“修行”を続けてください」
ということで十分なのではないか、そう思うのです。

こういう精神的な贈与交換というのは、一昔前なら宗教の場で機能していたのであり、私たちに馴染みの深い仏教なら、修行僧がお寺から托鉢に来たら、有り難いお経を詠んでいただく換わりに、わずかばかりのお布施をし、厳しい決断をして出家した優れた人たちの生活を支えていたのでした。

しかしながら、彼ら修行僧が本当に大成してくれるかどうかは、やはりなんといっても寺の中での修行(勉強)次第だったのであり、今で言えば、プロフェッショナルな領域でのコーチやその他のスタッフに囲まれた中での本人の努力次第というのと同じことでしょう。

制度的にみれば、その相互関係のプロセスにおいて、互いが互いを慈しみ合おうとする「贈与交換」が成立していることが重要なのであり、「贈与」の等価交換が互いに成立していると思える限りにおいて、人は精神的な満足を得ながら生活していけるような存在だということなんだと思います。

もちろん、一念発起して「慈悲心」を起こした側というのは、自分が納得するまで、過剰に、そして性急に衆生を救おうとしてしまいがちなのでしょうが、「その一念のみでは不十分なんだ」と抑制してあげられるのは、では誰なのでしょう。
本来的には周囲のコーチやスタッフであるべきであり、出来得ることなら衆生の側も「これ以上甘えているわけにはいかない」と伝えるだけの姿勢を保持すべきでしょう。

私が思うに、羽生選手は、既に私たちに多くの贈与をもたらしたにもかかわらず、それだけでは満足できず、今は過剰な慈悲心を起こした状態です。

この状態を上手く抑制してあげて、より本質的な精進に向かわせてあげるのが、周囲の高僧(コーチ)や寺の者(スタッフ)の役割のはずなのですが、なぜ、そうならないのでしょうか。

私が冒頭で、NHKの連中を「NHKなる集団」呼ばわりした理由がここにあります。

仏典をひもとくまでもなく、この連中は、ブッダ(覚醒者)を誘惑し、ブッダを迷わし、ブッダに余計なこと(過ち)をさせ、ブッダを自分たちのために利用しようと言葉巧みに近付いてくる邪悪な連中だと断定してしまって良いと思います。

羽生選手をブッダやその他宗教者に例えるのは行き過ぎだという批判は甘んじて受け入れましょう。

しかし、このままでは、誰が羽生選手を守るのですか?
そこが問題なのです。
いったい、羽生選手はただの「消費財・消費材」なのでしょうか?


おこがましいのですが、もし、私がプロデューサー的な立場なら、彼を守るために「フィギュアスケートは芸術たり得るか?」という問いを投げ掛けることでしょう。

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2014年7月 5日 (土)

驚愕すべき「老人虐待始球式」と、それを嬉々として報じるNHKを始めとする我が国のマスメディア

落ち着いて、冷静になって、考えてみなければならない。
タイトルをお読みになってピンと来る方は、私がこれから何を書こうとしているか、読まずとも分かっていただけるはずだ。
もう一度、タイトルを示す。
『驚愕すべき「老人虐待始球式」と、それを嬉々として報じるNHKを始めとする我が国のマスメディア』
昨日、7月4日、正式名称が良く分からない読売新聞が恐らく親会社として君臨しているプロ野球球団の創設80周年記念とやらで、OBである往年の名選手が、ピッチャーとバッターとして登場し、「始球式」にあたるショーを執り行ったらしい。
ピッチャー役の方は80歳、バッター役の方は78歳だという。
しかも、バッター役の方は、私もTV映像で確認したが、確か一時期血管系の病で倒れ、今も半身に麻痺が残っておられるようだ。

こういう御老人を創設80周年だか何だか知らないが、見世物にする企業を果たして合法的な企業とみなして良いのかどうか。

落ち着いて、冷静になって考えてみなければならない。

私は、間違いなく「老人虐待の現場を目撃してしまった」と感じたのだが、先進国間では最低ランクを誇るNHKを始めとする我が国のマスメディアは、あの光景を賞賛すべき祝賀すべきものと解したようだ。

明らかに異常ではないか。
落ち着いて良く考えてみよう。

もし、これが異常な行為とされないのなら、これこそが、我が国の「人権」をめぐるレベルなのだ。

私は、正直申し上げて、「人権、人権」と、絶対的正義のようなものを声高に唱えるような人や集団を、性格的に毛嫌いしてきた口だ。

しかし、ここまで劣化し、その状況を不思議だとも異常だとも思わない人間が蔓延してしまうなら、やはり、「人権」という言葉を口にせざるを得ない。

今、「ブラック企業問題」というものが、国家として解決しなければならない社会問題として浮上しており、「ブラック企業問題」の解決は、少子化の解消や女性の社会進出促進にも通底する「働き甲斐のある、生き甲斐のある社会」を形成していくために避けては通れない問題のはずだ。

生きやすい社会とは、社会に十分貢献して引退された老人をリスペクトし労ることが当たり前であるような社会でなければなるまい。
そうでなければ、現役世代に真っ当なモチベーションも正当なインセンティブも与えられないはずだからだ。
いったい、功労とは何か、引退した老人をリスペクトするとは何か、いたわるとはどういうことか?

その答えが(いかに本人の同意が得られたとしても)、彼らを見世物にして人寄せに使うということでしかないのであれば、もう、私たちは終わりなのではなかろうか。

本当に堕ちるところまで堕ちた。

各国のメディアは、もはや日本人をまともに論評するよりも、「お笑いの対象」として拡散することにシフトし始めているように見えるが、それは、「某県議の号泣記者会見」の扱いを見ても歴然としている。

「号泣」とは、「ソリューションを見出だせなくなった人間が、精神の不可逆的崩壊の寸前で、感情レベルの発作を起こすことによってその進行を防ごうとする精神的防衛機制の表出」と言えよう。
既に、外部から見れば、日本全体がそのような状態にあると見られ始めていると思われる。

まだ、一片の同情心が作用しているために、決定的な危険視までにはいたっていないのだろうが、
物理的なレベルで看過しがたい問題が発生した場合、日本は一気に追い込まれるべきレベルにまで達していると見た方が良い。

「長嶋と金田による始球式を老人虐待劇だと、正常に認識できないようでは、このまま堕ちるところまで堕ちて行くばかりなのだ」

そう強調しておきたい。

(日本人的な共感のあり方、同情、同調、これら全てはどこかおかしいものになっていないか、“良心的な”方々は、一度考えてみていただきたいと思う。
どうして見世物になった御老人が“頑張っている”姿を見て、共感するのですか?そんなふうに“頑張る”ことを人は求められねばならないのですか?
ちがうとおもいますね。
あきらかにちがう。

)

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2014年7月 1日 (火)

〈個の否定〉と〈他者の不在〉が〈問題〉なのだということに、私たちは気付くことが可能か?

今日、7月1日は、我が国の安全保障に関する意味不明の閣議決定がなされた日ということだが、
先日『朝日新聞』なる日本の日刊紙に、石川健治という東大の憲法学者が寄稿した小論を読んだ。(6/28)
この憲法学者が前振り及び背後の語り手として言及している高見順の小説の主人公なら、「朝日新聞」「東大教授」「憲法学者」という記号の連鎖に触れただけで、『生理的な拒否感』を抱いてしまいそうだ。
実際、私も、読まずに済まそうと思いもしたが、同年代の生まれの方と知り、同年代の東大の憲法学者(の一人)がどのような考えを抱いているかについて多少興味もわき、読んでみることにした。
(以下、『』内は、引用文)

読んでみると、私の問題意識とほぼ共通していることにまず驚いた。
最初、この文章はネットの某サイトで読んだのだが、慌ててコンビニで当該新聞を購入してみた。
メインタイトルは、恐らく筆者自らが付けた『「いやな感じ」の正体』
サブタイトル(リード文)が『「全体」のため「個」を否定』『価値観違う「他者」排除』『国民から憲法奪う企て』となっている。
昨今流行りの誰かの盲点を突いたり、陰謀論スレスレの虚を突いたりするものではないが、私のような乱暴な文章ではなしに、こういうきちんとした内容のものが、きちんとした文章できちんと社会に発信されることはやはり必要なのだと改めて思った。
氏は、高見順の小説『いやな感じ』を前振りとして用い、本来的には一時的例外でなければならなかった満州事変という「危機」が、その地政学上の理由から必然的に長期化することによって、「常態的体外危機」として持続し、それゆえ例外的一時的措置が永続化されるにいたり、やがて国家総動員体制として帰結する経緯を示している。
そして、現在喧伝されている「危機」も同様の構図の中にあり、しかも今の議論を先導しているのは、『現下の「危機」とも安全保障とも直接関係のない「他事考慮」ばかり』を根拠とする安全保障の専門性に乏しい集団だという。
その者たちが、イラク戦争を先導した「米国のネオコン」らと同様、『なぜそんなに急ぐのか』誰も納得しないまま、しゃにむに突き進んでいるという。
ここで、筆者は、この「いやな感じ」を『的確につかまえる言葉を探すことが急務』として、〈個の否定〉と〈他者の不在〉という二つのキーワードを呈示する。
自民党改憲草案では憲法13条前段の「すべて国民は、個人として尊重される」を「全て国民は、人として尊重する」に変えられているとして、政治思想的に〈個の否定〉が目論まれていることを示唆する。
次に『この〈個の否定〉は、同時に、〈他者の不在〉ともセットになっている』とし、『元来、基本的人権の保障とは、個々人に一人一人違う生き方を保障するために、権力を〈他者〉と捉えた上で、その介入を排除するものである』と言っている。
こういう考え方を「人類普遍」のものとみなすか否か、異論があったとしても、異論をさしはさむなら、それ相応の高度さが要求されるのは当然であり、自民党改憲案のように気に喰わないから削ってやれ程度の対応では誰も相手にしないのも当然だろう。
にもかかわらず、自民党は対抗し得る体系もなしに情緒的に〈個人〉という概念を抹消しようとしている。
鼻で笑われるべきだ。
筆者は、最後の段で、いかにも専門家らしい集団的自衛権に関する議論も提出しているが、紹介としては以上で大体十分ではないか。
こうした専門の学者による的確なまとめで浮かび上がって来るのは、安倍政権というのは、あまりに稚拙な論理で、日本国憲法に盛られた近代主義にも挑戦しているという事実であり、それが今は便宜的に「歴史修正主義」と呼ばれているものだろう。(今は、揶揄も込めて「歴史修正主義」と呼称されている日本の一部の者たちによる思想めかしたものは、このままの傾向が続くなら、やがて、外部から本格的な挑戦を受けるだろう。そして、今のレベルのままなら、いとも呆気なく白旗を上げることになるだろうことは、想定というものすら要しない自明性の内にある。)

最後に石川氏は、次のような文章で小論を結んでおり、(単なる政局噺とは全く違うものとして)政権も私たちも良く胸に留め置くべきものになっていると思う。すなわち
『価値観を異にする〈他者〉と共存する道を選ぶか否か。そうした文明論的な選択を含む以上、それは性質上、専門知で正解を出せる問題ではない。したがって、有識者懇談会の答申や与党政治家たちの合意で決めてよい問題ではない。ふさわしい手続きは、やはりレファレンダムであろう。少なくとも、一内閣による閣議決定でないことは自明である。』
(※レファレンダム=国民投票)

石川氏の論旨に概略共鳴し、問題意識を共有するのだが、しかし、悩ましいのは、私が前エントリーで指摘してみたように、そもそも私たちの中に〈個人〉という概念が定着し切っておらず、社会的(社会言論的に)十分機能していないという問題があるという事だ。
自民党改憲案が、意図的、意識的に「個人」を「人」と改変しても、少数の人しか驚かず、ほとんどの人は気にも留めず、読み流してしまう可能性は高かろう。
そこに「個人」と記されているがゆえに享受されている現行の諸権利について、「個人」として十分精神的に自立していないがゆえに、その有り難みも十分意識されていないということだ。
もし、現行憲法が、いつまで経っても私たちにとってどこか“余所行き”のものとして感じ続けられるなら、やがて、国民投票によって、私たちは私たちに相応しいように劣化していくかも知れない。
そうなることも想定し、そうならないための処方箋も練り上げなければ、私たちは、またぞろ外部からの挑戦によって崩壊の憂き目にあう可能性も高いと思われて仕方がない。

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