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2014年7月 8日 (火)

羽生結弦選手を守るために必要なこと

羽生選手と周辺のスタッフが、NHKなる集団に取り囲まれて、何とかいう震災復興キャンペーンソングをバックに、フィギュアスケートを滑ることになったようです。

……と、こういう紹介の仕方は、おかしな言葉遣いになってしまうのでしょうか?

「NHKなる集団」とは何事か。
「取り囲まれて」とは、どういう言いぐさか。
「何とかいう震災復興キャンペーンソング」とはまた聞き捨てならない表現だ。

NHK関係者ならずとも、一般的には、そのように受け取られてしまってもやむを得ないところが、やはりこのような表現にはあるでしょうか?

だが、羽生選手が「オレオレ詐欺」同然の仕打ちに、今、遇いつつあるのだとすれば、事態は急を要するのです。
そのことを周辺のスタッフや少なくともファンを自称される方々が分かってあげられなければ、羽生選手のみならず、今後、どんな立派な人物が世に出て来ようとも、同じようなことがいつでもどこでも繰り返されて行ってしまうのです。

羽生選手は、自身も被災者であり、それゆえ、こうして金メダリストとなった今、被災者のため被災地のために何かしてあげられることはないかと、彼が真剣に思うことは、まさに崇高とすら呼ぶべき心掛けだとは思います。

けれども、もし、羽生選手のその思いを本当に大切にしたいのなら、私たちはむしろこれ以上甘えていてはいけないのではないでしょうか?
もちろん、私など被災者でも何でもないわけですから、「私たち」などと一括りにするなと言われてしまえば、なかなか二の句をつげない面もあるのですが、しかしあえて「私たち」という言葉を使わせていただくなら、私たちは既に十分に羽生選手の活躍から多くの喜び、多くの精神的解放、多くの精神的エネルギーをもらっているはずだと思うのです。

羽生選手にしてみれば、オリンピックは何よりも自分が金メダルを取ることを第一に滑ったのだったが、この機会に、何か純粋に人様のためになることをしたいという強い意欲を持っているんだということでしょうし、その気持ちは傍目に見ても良く分かります。
実際、人格に優れた立派な人ほどそのように考えるのであり、そのような気持ちのあり方は、まさに崇高なものとして讃えられるべきです。
そしておそらく、「慈悲」の作用とはそのようなものなのですが、そのように「思っている」ということが伝わりさえすれば、本来はそれで十分なのであり、私たちはそれ以上の余計な要求をすべきではないのではないか。

これ以上の要求ばかりをするのでは、「贈与交換の原理または倫理」から外れてしまうのではないかと、私はそういうことをここで言いたいわけです。

現に、私たちは、羽生選手から、たくさんのギフトを受け取りました。
であれば、そのお返しをすべき番は私たちなのですが、仮に私たちが余りにも無力で何のお返しも出来ないとするなら、
「次回、また、オリンピックに出て優秀な成績をおさめられるよう見守りますよ」
「どんなことがあってもまた応援することを約束しますよ。ですから、静かにそして着実に“修行”を続けてください」
ということで十分なのではないか、そう思うのです。

こういう精神的な贈与交換というのは、一昔前なら宗教の場で機能していたのであり、私たちに馴染みの深い仏教なら、修行僧がお寺から托鉢に来たら、有り難いお経を詠んでいただく換わりに、わずかばかりのお布施をし、厳しい決断をして出家した優れた人たちの生活を支えていたのでした。

しかしながら、彼ら修行僧が本当に大成してくれるかどうかは、やはりなんといっても寺の中での修行(勉強)次第だったのであり、今で言えば、プロフェッショナルな領域でのコーチやその他のスタッフに囲まれた中での本人の努力次第というのと同じことでしょう。

制度的にみれば、その相互関係のプロセスにおいて、互いが互いを慈しみ合おうとする「贈与交換」が成立していることが重要なのであり、「贈与」の等価交換が互いに成立していると思える限りにおいて、人は精神的な満足を得ながら生活していけるような存在だということなんだと思います。

もちろん、一念発起して「慈悲心」を起こした側というのは、自分が納得するまで、過剰に、そして性急に衆生を救おうとしてしまいがちなのでしょうが、「その一念のみでは不十分なんだ」と抑制してあげられるのは、では誰なのでしょう。
本来的には周囲のコーチやスタッフであるべきであり、出来得ることなら衆生の側も「これ以上甘えているわけにはいかない」と伝えるだけの姿勢を保持すべきでしょう。

私が思うに、羽生選手は、既に私たちに多くの贈与をもたらしたにもかかわらず、それだけでは満足できず、今は過剰な慈悲心を起こした状態です。

この状態を上手く抑制してあげて、より本質的な精進に向かわせてあげるのが、周囲の高僧(コーチ)や寺の者(スタッフ)の役割のはずなのですが、なぜ、そうならないのでしょうか。

私が冒頭で、NHKの連中を「NHKなる集団」呼ばわりした理由がここにあります。

仏典をひもとくまでもなく、この連中は、ブッダ(覚醒者)を誘惑し、ブッダを迷わし、ブッダに余計なこと(過ち)をさせ、ブッダを自分たちのために利用しようと言葉巧みに近付いてくる邪悪な連中だと断定してしまって良いと思います。

羽生選手をブッダやその他宗教者に例えるのは行き過ぎだという批判は甘んじて受け入れましょう。

しかし、このままでは、誰が羽生選手を守るのですか?
そこが問題なのです。
いったい、羽生選手はただの「消費財・消費材」なのでしょうか?


おこがましいのですが、もし、私がプロデューサー的な立場なら、彼を守るために「フィギュアスケートは芸術たり得るか?」という問いを投げ掛けることでしょう。

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