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2014年7月 1日 (火)

〈個の否定〉と〈他者の不在〉が〈問題〉なのだということに、私たちは気付くことが可能か?

今日、7月1日は、我が国の安全保障に関する意味不明の閣議決定がなされた日ということだが、
先日『朝日新聞』なる日本の日刊紙に、石川健治という東大の憲法学者が寄稿した小論を読んだ。(6/28)
この憲法学者が前振り及び背後の語り手として言及している高見順の小説の主人公なら、「朝日新聞」「東大教授」「憲法学者」という記号の連鎖に触れただけで、『生理的な拒否感』を抱いてしまいそうだ。
実際、私も、読まずに済まそうと思いもしたが、同年代の生まれの方と知り、同年代の東大の憲法学者(の一人)がどのような考えを抱いているかについて多少興味もわき、読んでみることにした。
(以下、『』内は、引用文)

読んでみると、私の問題意識とほぼ共通していることにまず驚いた。
最初、この文章はネットの某サイトで読んだのだが、慌ててコンビニで当該新聞を購入してみた。
メインタイトルは、恐らく筆者自らが付けた『「いやな感じ」の正体』
サブタイトル(リード文)が『「全体」のため「個」を否定』『価値観違う「他者」排除』『国民から憲法奪う企て』となっている。
昨今流行りの誰かの盲点を突いたり、陰謀論スレスレの虚を突いたりするものではないが、私のような乱暴な文章ではなしに、こういうきちんとした内容のものが、きちんとした文章できちんと社会に発信されることはやはり必要なのだと改めて思った。
氏は、高見順の小説『いやな感じ』を前振りとして用い、本来的には一時的例外でなければならなかった満州事変という「危機」が、その地政学上の理由から必然的に長期化することによって、「常態的体外危機」として持続し、それゆえ例外的一時的措置が永続化されるにいたり、やがて国家総動員体制として帰結する経緯を示している。
そして、現在喧伝されている「危機」も同様の構図の中にあり、しかも今の議論を先導しているのは、『現下の「危機」とも安全保障とも直接関係のない「他事考慮」ばかり』を根拠とする安全保障の専門性に乏しい集団だという。
その者たちが、イラク戦争を先導した「米国のネオコン」らと同様、『なぜそんなに急ぐのか』誰も納得しないまま、しゃにむに突き進んでいるという。
ここで、筆者は、この「いやな感じ」を『的確につかまえる言葉を探すことが急務』として、〈個の否定〉と〈他者の不在〉という二つのキーワードを呈示する。
自民党改憲草案では憲法13条前段の「すべて国民は、個人として尊重される」を「全て国民は、人として尊重する」に変えられているとして、政治思想的に〈個の否定〉が目論まれていることを示唆する。
次に『この〈個の否定〉は、同時に、〈他者の不在〉ともセットになっている』とし、『元来、基本的人権の保障とは、個々人に一人一人違う生き方を保障するために、権力を〈他者〉と捉えた上で、その介入を排除するものである』と言っている。
こういう考え方を「人類普遍」のものとみなすか否か、異論があったとしても、異論をさしはさむなら、それ相応の高度さが要求されるのは当然であり、自民党改憲案のように気に喰わないから削ってやれ程度の対応では誰も相手にしないのも当然だろう。
にもかかわらず、自民党は対抗し得る体系もなしに情緒的に〈個人〉という概念を抹消しようとしている。
鼻で笑われるべきだ。
筆者は、最後の段で、いかにも専門家らしい集団的自衛権に関する議論も提出しているが、紹介としては以上で大体十分ではないか。
こうした専門の学者による的確なまとめで浮かび上がって来るのは、安倍政権というのは、あまりに稚拙な論理で、日本国憲法に盛られた近代主義にも挑戦しているという事実であり、それが今は便宜的に「歴史修正主義」と呼ばれているものだろう。(今は、揶揄も込めて「歴史修正主義」と呼称されている日本の一部の者たちによる思想めかしたものは、このままの傾向が続くなら、やがて、外部から本格的な挑戦を受けるだろう。そして、今のレベルのままなら、いとも呆気なく白旗を上げることになるだろうことは、想定というものすら要しない自明性の内にある。)

最後に石川氏は、次のような文章で小論を結んでおり、(単なる政局噺とは全く違うものとして)政権も私たちも良く胸に留め置くべきものになっていると思う。すなわち
『価値観を異にする〈他者〉と共存する道を選ぶか否か。そうした文明論的な選択を含む以上、それは性質上、専門知で正解を出せる問題ではない。したがって、有識者懇談会の答申や与党政治家たちの合意で決めてよい問題ではない。ふさわしい手続きは、やはりレファレンダムであろう。少なくとも、一内閣による閣議決定でないことは自明である。』
(※レファレンダム=国民投票)

石川氏の論旨に概略共鳴し、問題意識を共有するのだが、しかし、悩ましいのは、私が前エントリーで指摘してみたように、そもそも私たちの中に〈個人〉という概念が定着し切っておらず、社会的(社会言論的に)十分機能していないという問題があるという事だ。
自民党改憲案が、意図的、意識的に「個人」を「人」と改変しても、少数の人しか驚かず、ほとんどの人は気にも留めず、読み流してしまう可能性は高かろう。
そこに「個人」と記されているがゆえに享受されている現行の諸権利について、「個人」として十分精神的に自立していないがゆえに、その有り難みも十分意識されていないということだ。
もし、現行憲法が、いつまで経っても私たちにとってどこか“余所行き”のものとして感じ続けられるなら、やがて、国民投票によって、私たちは私たちに相応しいように劣化していくかも知れない。
そうなることも想定し、そうならないための処方箋も練り上げなければ、私たちは、またぞろ外部からの挑戦によって崩壊の憂き目にあう可能性も高いと思われて仕方がない。

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