« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年8月

2014年8月30日 (土)

いったい、この国はどうしてしまったのか。全国高校軟式野球準決勝戦、45回になっても決着つかず。

(この段落、8/31午前中、再追記分)
腹立たしいこと、この上ない。
テレビ朝日の『報道ステーション』なる殆ど場合、悪ふざけ報道しかしていない番組の連中が、案の定/予想通り、へらへらへらへらへらへら笑いながら、この件を伝えた。
しかも、「球史に残る」だの「レジェンド」だのといった形容詞付きで。
さらに悪質なのは、「脚光を浴びた軟式野球」なる台詞があったことだ。こいつらの主観にしてみれば、「脚光を浴びせてやった」ということなのだろう。
こういうプリンシプルなき連中ゆえに、日頃、リベラルぶっていても、安倍政権がむちゃくちゃやり始めたところで、それに対抗し得る論陣を張るといった本格的なジャーナリズムの仕事など一切できないのである。
この人たちは、したがって、ある意味では、産経や読売など俗悪な保守反動よりも更に悪質なのであって、私たちはその点を常にわきまえていなければならない。
政府官僚が敷いてみせる敷居線からは一歩も出てみせない追従主義・追随主義・ご都合主義が、この人たちに何らかの主義主張があるとすれば、それにあたるものだ。
もちろん、どんな組織であれ、全員が全員そうだということはない。誰が味方で誰が敵か、そんなことはがり言っていると、いつの間にかセクト主義に陥る自らの反省材料・内省材料として使うしかない。

(第一段落:8/31早朝追記)
この件、思った通り、「感動屋」が、これは感動すべき出来事なのだとして情緒の押し付け、すなわち同調強要・同調強制を開始しはじめている。本来ある事態を適切に管理すべき者たちの責任は不問にふされ、現場の人間・上位者には逆らい難い者たちの「死を賭した」かのような“努力”や“忍耐”ばかりが賞賛され称揚される構図が作り上げられようとしている。「正常さ」の「閾値」が忘れ去られることと、「法の支配」「立憲主義」が軽んぜられることとは、同じご都合主義による精神の堕落に他ならない。ここまで来るとこの偶然の出来事は、「政治的プロパガンダ」として利用され始めること必定だ。これが私たちを取り巻く「ひたすら頑張ることを強要される」現実ですよ。「ブラック企業」を栄えさせるイニシュエーションのようなものだと言っても過言ではないはずだ。「野球だから許される」「高校生の青春の思い出だから許される」そんなバカなことは本来ないのであって、本当に私たちは迂闊な存在ですよ。目の前には絶望的な荒野が広がってんですよ。(以上、追記)

他の話題に言及しようと思っていたのだが、この国が落ち込んでいる異常な社会空間の実態を象徴するような出来事が生じているらしいので、速記録のように残しておきたい。

今、NHKニュース他で知ったのだが、現在開催されている高校生の軟式野球全国大会の準決勝で、両校共に点が入らず、今日で45回を0対0のままで終え、結局決着は明日に持ち越されたとのこと。(さすがに、54回終了時点で決着がつかなければ、抽選という形をとることにしたようだが、もはや後の祭りだろう)

先日、プロ野球の話題で、耐え難い老人虐待について言及してみたが、今度は、いかに偶然が作用したものとはいえ、耐え難い児童虐待が公衆の面前で繰り広げられることになってしまった。
いったい、この国はどうしてしまったのだろう。何がいたるところで進行してしまっているのだろう。

まず、信じがたいのは、教育関係者、大会主催者ほか関係者らの無為無策ぶりだ。
軟式だろうが、硬式だろうが、高校生の野球部活動というのは、何を目的にやっているのだろうか。
教育の一環であるとともに、心身の健全な育成に資するためにやっているのではなかったのか?
今、生じているのは、無為無策にして、無能で無情なおかしな大人が、結果的に公衆の面前で繰り広げることになってしまった児童生徒虐待に他ならない。
こんな事が許されて良いのか?
全く信じがたい。
さらに信じがたいのは、これをニヤニヤ顔で報道してみせるTV局の連中だ。

いったい、いつから高校生たちは、こいつらに体の良い話題を提供させられる見世物人夫にさせられてしまったのか。
ジャーナリズムであれば、「異例」と「異常」の差異に関する感性は常に研ぎ澄ませておかなければならないはずだ。
目前で児童虐待に等しい光景が繰り広げられているというのに、なぜ、第三者の冷静な視点・意見をそこに提供することが出来ないのか。
ニヤニヤニヤニヤ薄気味悪いニヤケ顔で、偶然の出来事とはいえ、児童生徒にとって余りに過酷な状況を面白おかしく伝えた連中、本当に許しがたい。

これが、我が国の<人権>と<教育>をめぐる無知性・無感性・無感情・無能・無為無策・無分別の実態であり現実なんだよ。

ここに気付けない連中は、もう本当にお仕舞いなのではないだろうか。


「出来事」は「見世物」じゃあねぇんだ。


「悲劇」は「お涙頂戴」じゃあねぇんだ。


そういう基底的なことも省みるべき契機が一切もたらされようとしないのが、私たちの生きている社会の実態ですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年8月20日 (水)

週刊新潮8/28号『「STAP細胞」とは何だったのか?』

『週刊新潮』など、そもそも私のようなあまり程度の良くない人間が読む週刊誌なのだから、書かれていることなど、たかだか知れていることは読む前から分かってはいるのだが、そういうたかだか知れている“場所”において、自称「日本の科学者」がどんな問題意識を持って臨んでいるのかについて、少しばかり興味を持った。
標題記事の副題には次のようにある。
『威信と信用が音を立てて崩れ去った「日本の科学者」本音座談会』
この座談会をやった科学関係者は50音順に以下の通り。
池田清彦(早稲田大国際教養学部教授)
榎木英介(近畿大医学部講師)
竹内薫(科学作家)
丸山篤史(医学博士)
緑慎也(サイエンスジャーナリスト)
皆さん、匆々たる学歴と肩書きをもってお出ましだ(笑)。
一読しての感想は、「あまり程度の良くない私たちの前に登場する状況」に対する驚くべき<危機感の欠如>である。
あまり、程度がよろしくなさそうな「週刊新潮」の編集部も書いているではないか。『威信と信用が音を立てて崩れ去った』状態だと。
少なくとも“遺された”科学関係者は、この状況に対して危機意識を持たなければ嘘だろう。
ところが、「余り程度の良くない読み物」にいかにも相応しく、座談会全般が結局のところ小保方や笹井を貶める方向に終始している。
どうも、この人たちは、立派な経歴や肩書きを持っていても、頭はあまりよろしくなさそうだ。
自らが多少なりとも関係している「目前の事象」というものに対する認識力や解析力に少々難があるのではないか、そう強く思わせる。これは科学者(科学関係者)としては、致命的な欠陥ではないかと思うのだが、ご本人らはどうやら意に介していないようだ。
小保方や笹井を貶めておけば、相対的に自分たちは上昇する、あるいは免責されるとでも思っているのだろうか。(もちろん免責といったって、この人たちに直接の責任はない。だが、マスメディアで発言するということは、それなりの責任がその時点で発生するのである。だが、この人たちにそういう上質な知性というものを求めるのは、どうやら無理筋のようだ)
この人たちは私たちのような「あまり程度の良くない人々」を馬鹿にしていて、こんな会談でもしておけば満足なんでしょうという態度なのかも知れないが、しかし、「程度の良くない者」は程度が良くないなりに「上昇」とも「責任」とも無関係な存在ゆえ、逆にそれほど甘くはない。
単に「科学者」だというだけで、私たちにとって、この人たちは一蓮托生の存在にしか見えないのである。
とりわけ、ここに登場している人物の発言を読めば、間違いなく小保方以下、笹井以下の人材であることは余りにも明らかなので、この者たちが小保方や笹井を如何に貶めてみせたところで、「失われた威信」も「失われた信用」も恢復されることはあり得ない。むしろ、やはり、その辺に転がっている“科学者”などというものは所詮この程度のものなのかという心証を強化する役割しか果たしていない。
それなら今、真っ当な科学者関係者が顔を合わせて話し合うべきことがあるとすれば、それは何なのだろう。
池田清彦という人についてはその著書をまんざら知らないわけでもなかったがゆえに、その俗物的発言には呆気に取られざるを得なかったが、この人たちがわざわざ顔を付き合わせて今話し合うことがあるとすれば、それは、「小保方論文」の撤回という事態を受けて「失われた信用」を恢復するために自分たちは何が出来るのか、というのが一つ。
さらに、「小保方論文の撤回」という事態を受けて、では「STAP」もしくはそれに類する仮説の展望や可能性は0になったのかという科学論議が一つ。
自らが関連の研究者として、この分野の研究の主要テーマ、モチーフ、あるいは難題として、一般人も掌握しておいて良いものとしてはどのようなものがあるか、という啓発的論議が一つ。
ジャーナリストや作家を自称するなら、科学研究全般において、社会制度と研究行為との間にどんな問題が横たわっているのか、これからまたどんな問題が生じる可能性があるのか、というのが一つ。
ざっと考えただけでも「小保方論文」を撤回を受けた先には、少なく見積もってさえ、これだけのテーマがある。
にも関わらず、この人たちの会話というのは、「小保方論文のミスや不手際を指摘できる僕って偉い」とか「小保方さんは特殊な人材だったが僕らは違う、皆さん、絶対に違うんだよ、信じてくれよ」という程度の会話に終始しているだけだ。
こんな程度の会話なら、「TCR再現がどうした」などということを殊更に指摘しなくとも、私たち「程度の余り良くない人間」でも十分できるものに過ぎない。
いったい、この人たちにとって「知性」だとか「知的営為」とはどのようなものだと認識されているのだろう。
「科学」とは「可能性の追求」であり「未知の真理の発見」「未知との遭遇に関する報告」ではなかったのか。
この人たちの会話を読んでいると、そもそも「仮説」というものの存在をすら承認していないのではないかとさえ思われてくる。
「仮説」とは、それが実証されるまでは、明け透けに言えばいつも常にでたらめであり、あてずっぽうだろう。理論物理学等の分野で、理論的にはほぼ確からしいと思われている学説にしても、多くの研究者らが、それを実証すべく観察や実験を日々繰り返しているではないか。
当然知らぬわけではあるまい。
にもかかわらず、この人たちは、どういう根拠からか知らないが「我々は小保方とは違う、我々と小保方を一緒にしないでくれ」ということを強調したいあまり、科学における「仮説」というものの存在すら葬り去ろうとしているかにすら見える。実際、その程度のことしか言っていない。
明らかに「科学者存在」として小保方以下の連中であることが、会話の質からして歴然としている。
営業妨害になるといけないので、引用は最小限にとどめておくが、科学論議の発端になりそうながらもあっという間に立ち消えになった残念な箇所があり、(座談者の名誉のためにも)そこだけ引用しておこう。

(以下、引用。……は省略箇所)
緑「ちょうど読んでいた池田先生の『生きているとはどういうことか』という本にも、ショウジョウバエの胚にエーテルを吹きかけると、本来は2枚しかない羽が4枚になるという例が出ていました。外部刺激で細胞の万能性が復活することは、自然界ではあり得るという話です。……」
池田「最近はエピジェネティクスといって、遺伝子自体ではなく、それに外部刺激を与えるとアクティビティがどう変わるかが大事になっています。そうした実験を重ねていけばSTAP細胞のような発見があってもおかしくないと。……」
(引用、終了)

笹井氏は、「STAP現象に関する有力な反証仮説はまだ目にしていない」という趣旨のことを言っていたようだ。意訳するなら「他人の粗捜しばかりゴニョゴニョしていないで、反証論文を出せるものなら出してみろ」ということだったのだろう。
小保方論文が、かなり杜撰なものだったのは確かなのだろうし、小保方氏が何か強い思い込みの中に入っていた可能性も否定しきれない面は確かにあるのだろう。
ただ、同じ科学者の会話として、この人たちの会話からは、フェアではない精神性しか流れて来ないのであり、「知的」に相当低いレベルのものであることは間違いない。
「程度の悪い者」の読む雑誌にわざわざ登場して、その程度の悪い者と同じレベルの会話をゴニョゴニョゴニョゴニョしている様を自らの同意のもとに発表してしまって、この人たちは恥ずかしくないのだろうか。
こういう厚顔無恥もひっくるめて『威信と信用が音を立てて崩れ去っ』ている状況に気付いていないらしいその姿は、あまりにおぞましい。

個別の項目という意味では、それなりに“高度”なことに取り組んでいたとしても「知的質」「知的レベル」という観点からはお話にならない者たちが、このまま跋扈しているようなら、日本の科学的環境が危機に瀕しているどころか危機を通り越した状態であるということが確かにリアリティを帯びてくる。
今回の小保方問題によって、逆説的にこれまで不可視の領域に隠されがちだった科学界の知的レベルというものが可視化されてきてしまった。
原子物理学分野や放射線医学分野の学者らが、わざわざTVに出て、なぜあれだけの出鱈目を口にして平然としているのか、科学者というものにそこはかとない憧憬を抱いていた私のような「余り程度の良くない人間」にとっては不思議でならなかったのだが、この度の騒動が、逆説的に幻想の解体に貢献してくれることになった。

科学者、研究者、またそれを取り巻く報道者・解説者たちの「床屋政談」ならぬ「床屋科学談」など唾棄すべきものでしかないのであり、本当に恥を知れと言いたい。

“この程度“の連中が、何の可能性をも追求せず、“この程度”のお茶をわかしている……
この程度の連中こそ、門前払いが妥当なのではないのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年8月14日 (木)

ブライアン・イーノ→デヴィッド・バーン←ピーター・シュワルツ

ブライアン・イーノの手紙に呼応する形で、ピーター・シュワルツという人が、バーン宛てに公開書簡を送っているとのこと。
ピーター・シュワルツという人は、書簡の自己紹介によれば次のようだ。
『知っての通り私は移民で、親はホロコーストを生き延びている。文化的にはユダヤ人だが、宗教的にも精神的にも中立で、無神論者だ。そしてユダヤの国イスラエルを作ったことは歴史的失敗だと考えていて、そのせいであの地域は破壊されそうだと思っている』
こうしてみると、米国の知識階層に多いタイプのユダヤ系米国人ということなのだろう。
書簡全体に渡る豊富な知識と真摯な姿勢には傾聴に値する部分も多い。
だが、(と、あえて)言わなければならないと思うのは、例えば次のような記述についてだ。

(以下、引用。)

私自身はイスラエルの姿勢を支持しないが、イスラエルを批判する声に対しては、最近または現在も他の多くの国で非道な行為が行われているのに、そっちは批判しないのかと思う。ちょっと例をあげるだけでも、カンボジア、チベット、スーダン、ソマリア、ニカラグア、メキシコ、アルゼンチン、リベリア、中央アフリカ共和国、ウガンダ、北朝鮮、ボスニア、コソボ、ベネズエラ、シリア、エジプト、リビア、ジンバブエ、そして今は特にナイジェリアなどがある。「アラブの春」は多くのアラブ人にとって暗い冬となり、イラクとシリアの国境沿いでは大規模な殺戮が起きている。そして我らがアメリカやイギリス、オランダ、ロシアやフランスも、この非道な行為に参加している。それによる死者数や社会の破壊と比べると、イスラエルの行為すべてが小さく見える。イスラエルが違うのは、彼らが倫理的に分があるとしてきたことだが、それもレバノンの難民キャンプに置き去られた。彼らは今ただ他の国と同じように、憎しみの海で生き残ろうとしているだけなのだ。

(引用、終了)

この部分は、ピーター・シュワルツが、豊富な知識を駆使して歴史的経緯や何やらを説明しているほんの一部に過ぎないし、彼はけっして現在のイスラエルを支持しないことでは一貫している。
にも関わらず、この部分で彼は、世界に紛争の種は尽きず、イスラエルのしていることなど小さなことに過ぎないと結果的に言ってしまっている。
もし、私が米国籍を持つ日系アメリカ人だったら、やはり、こんなふうに苦し紛れに安倍政権を擁護する義務感に駆られるのだろうか。
そうかも知れない。
その意味では、大変同情的になる余地は十分にある。
そうでなくともユダヤ人は、欧米社会で理不尽な差別的視線に未だにさらされやすい面はあるのだ。
「ユダヤ人の歴史を知ってほしい」
彼が口をすっぱくして、記述としては確かに事実関係に即したユダヤ人に固有の歴史を縷々述べたくなるのは分かる。
だが、と私はあえて言おうと思う。
例えば、米国の中でユダヤ人が何かを大きな声で主張しはじめたなら、誰もが反射的にその声に耳を傾けるか、少なくとも耳を傾ける振りをしなければならないと思うだろう。
それが、ユダヤ人が米国内で築き上げた地位であって、それは生半可な努力ではなかったとしても、事実には相違ない。
一方、例えば、彼が掲げたチベット人でも良い、チベット系米国人が、民族固有の歴史から現状の被抑圧的状況まで縷々述べ始めたとして、どうやって米国内の大きな話題になるというのか。(しかも、チベット人は、イスラエル=パレスチナの関係で言えばパレスチナ的立場だ)
私は彼が挙げた国々で何が起きたのか/起きているのか一々説明できない程度の無知な人間にはちがいないが、イスラエル―パレスチナほど非対称的な形の“紛争”は、客観的にも珍しいと言わざるを得ないのではないだろうか。というのも、“紛争”にありがちな大国の優越的地位を濫用して一方の側に加担しがちな(彼が掲げた国々である)アメリカもイギリスもオランダ(?)もロシアもフランスも、更には中国も日本も、誰も彼も積極的にパレスチナ側には立ってくれないからだ。
これらの大国は言うだろう。「だって、パレスチナ側に立ったって一文の得にもならないじゃないか」
これを非対称的な紛争と言わずして何と言えば良いのか、私には分からない。
つまり、私が言いたいのは、ユダヤ系米国人は、自らシオニストと言うのでなければ、私たちこそいつでも被害者なのだという顔をしながら、米国内における優越的な地位を少なくとも濫用してはならないだろう、ということだ。
イーノが強調しているのは、私たちが築き上げてきた市民的価値観を破壊しようとしているのは、私たち自身だということだ。
それが米国で起きている。そして、それはイギリスでも起きているだろう、もちろん、日本でも起きている。
この状況に歯止めをかけなければ、今は優越的な地位を享受しているユダヤ系米国人でさえ、将来はどうなるか分からないはずだろう。
イーノはそこまで考えて言っているはずだ。
ネタニヤフがパレスチナ人にしていることと、ヒトラーがユダヤ人にしたことと、どこがどう異なるのか、市民的価値観から説明できる者はいるのだろうか?
もちろん、パレスチナ側が抱いてしまっているだろう憎悪に十分な武器を与えれば、とんでもないことになってしまう可能性もなきにしもあらずなことは確かにちがいない。
だが、世界の大国が、世界の中に憎悪に基づく著しく非対称的な地域を作り上げ、それを放置していることは許されまい。そして、そういう観点から、何らかの妥協点を形成しなければ、憎悪の連鎖は結局やむことはないのも確かだろう。

だから、一方に加担するという形ではなしに、何とかしなければならないのだ。

私は、ここで、ピーター・シュワルツを非難しているのではない。
二回の世界大戦を経て、形成されてきた欧米主導による戦後の世界秩序は明らかに曲がり角を迎えつつあり、とりわけ顕著なのは、米国の介入はことごとく失敗に終わるべく宿命づけられているということを、シュワルツほどの知識人なら理解しているはずなのではないかと想像をめぐらせているだけだ。
悪役フセインを“討伐”してみせたイラク戦争によって、軍事的な一時的平定はしかしその後の地域の安定に寄与するものではないことが、あまりにもあからさまになってしまった。

今、必要なのは、米国がテロリスト指定した者たちでさえも、会議の場に引っ張り出すことだ。
いや、テロリストばかりではない、ロシアが問題を起こしたから欧米クラブ(サミット)からロシアを除外する?「制裁」を科す?
そんな相手の自尊心をズタズタにするような傲慢なことを続けていて、“西側”の安寧が維持できるのか。
“西側”へのリスペクトは維持できるのか。

既に大衆音楽、民衆音楽の世界では、西欧中心主義、西欧優先主義の時代は終わりを遂げている。
デヴィッド・バーンは、そのことに十分意識的なはずだ。
バーンに直接的な政治力などないだろうし、そういうことを期待するのは誤っている面もあるだろう。
だが、音楽は時代を先取りしているのであり、だからこそ、この音楽家たちの議論は重要なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年8月13日 (水)

ブライアン・イーノ→デヴィッド・バーン→Remain in the light?/right?

サッカーW杯について考えていて、ふとよみがえってきたヘミングウェイという米国人作家の固有名詞に意識が引っ掛かり続けていたところ、同時代に生きる(私にとって)重要な固有名詞であるブライアン・イーノの肉声が聞こえてきた。
英国人のイーノが、米国人のデヴィッド・バーンに宛てた通信文の訳文が日本のネット環境に流通しているのを見付けたのである。
リスペクトの積み重ねとしての歴史が形成されることのない戦後日本の時間においては、イーノもバーンも、まさに遠い走馬灯の流れ去る無縁の一灯のようなものに過ぎないのだろう。それはだが、自らの位置を知らぬ傲慢な者たちにだけ許された恥辱なのであり、私たち(一般大衆)の歴史にとっては、確実に刻印された固有名詞であるとともに、同時代にあってこの混迷状態を私たちと同様に苦悩する生きた個体なのであり、だから単に私たちにとって生活を彩るだけのネオンサインでも何でもないはずなのだ。
もし、リアルにそう感じられないとするのなら、それは、彼らが私たちから遠いのではなく、私たちが彼らから遠いのだ。そのことを見失ってしまえば、恥辱はそうとは認知すらされず、反復され増殖してゆくしかないだろう。
戦後70年経っても、何ら歴史らしい歴史を構築することもできないこの極東の地に住まう人々は、それ以前の「これがお前たちの歴史だ」と誰かによってパッケージされたものには不満たらたらで、ブーブー言っているらしい。
彼ら「オムツを着けた大人」。
確かにその歴史は自分たちでパッケージしたものではないかも知れない。しかし、さして努力もせずに不平不満ばかりたらたらたらたら述べているのは、サボり癖がついてまともな向上心もなく、労働組合の親分に頼り切りのブータレ労働者の姿にそっくりだ。
70年もの時間的猶予があったにも関わらず、その70年間すらも何ら歴史らしい歴史にできなかった者たち(オムツをつけた大人)が、過去の確定された歴史については容認しがたいと不平を言い続ける姿というものは、子どもに分かる滑稽さであり、おぞましさにほかなるまい。
そういうことを分かろうともしない連中に限って、イーノにもバーンにも、すなわち脱西欧中心主義、脱人間中心主義の「具体」にも、結局はひとかけらの興味も持たないでいるのだろう。だから、グータラブータレニートといささかも変わらないというのだ。
もちろん、イーノもバーンも特定の文化ジャンルを代表するに過ぎない固有名詞だと言えなくもないのだが、問題は、そういう固有名詞を知っているか否かではない。
そうした固有名詞は、前提としてリスペクトの上に成立しているものなのであり、さらにコミュニケーションをする上で、そのような固有名詞を出すことがコミュニケーションの簡便さに寄与するということに過ぎず、重要なのは、一旦、そのようなものを取り払ったとしても、そのような固有名詞が濃厚に関与することで切り開かれた歴史を認識できているか否かということだろう。
歴史は動きながら蓄積され蓄積されながら動き、踏まえるべき前提であるとともに、越えるべき壁であり、標として機能する未完成の道程でもあるということを認知しているか否かが重要なのだ。
次々と生まれてくる幼児たちを、ただやみくもにちやほやし、愛でていれば過ぎて行くだけの時間は、所詮は自己満足の時間に過ぎず、独善的な価値をしか生まず、何よりもせっかく生まれてこれから伸びようとする者のオムツを外してあげることさえも出来ない。
愛でて可愛がっていられるのは、彼が彼女があくまでも自分の手の内にあり、けっして対峙も対抗も敵対もして来ないからだ。
つまり、自らに対峙する「個」にも「他者」にもならないから、懐に入れて猫可愛がりしていられるのである。
そういうものの連鎖が今日の日本を形成しており、そういうものの非歴史的な連鎖しか見出だせないがゆえに、積極的に子孫を残そうというモチーフも現実局面では失われていくのである。
一度でも歴史の形成に寄与したいと志した日本人なら、そんなことはみんな知っていることではないのか。
みんな知っているのに、そこから逃亡し続けているのが私たちなのであり、自己満足のために他者を自己の分身として猫可愛がりしようと思う人間以外は、子孫を残すことに積極的な意味を見いだせなくなっている。
このような現状からぬけ出す出すにはどうすれば良いか。
その一つの作業として、歴史がどのような場所で形成されるかを知っている人物の言葉(言葉が最善のメディアとは言えないかも知れないとしても)に耳を傾けることは重要な動作の一つになるだろうと思われる。
今後の世界史がどのように形成されるべきかを考える一助になるものとして、自分の記憶にとどめるためにも、イーノの通信文の一部をここに抜粋しておく。

(以下、訳出文からの引用。……は中略の意。※は引用者の感想ほか)

全てのかたへ、
この手紙で暗黙のルールを破ることになるが、これ以上黙ってはいられない。
今日、私はパレスチナの男性がプラスティック製の肉用の箱を抱えて泣いている写真をみた。それは彼の息子だった。……少年の名前はモハメド・カリフ・アルナワスラ。彼は4歳だった。
……
アメリカでは何が起こっているんだ。私自身の経験から、ニュースがどれだけ偏っているか、そしてあなた方がこの話の片側についてはほとんど耳にしていないことを私は知っている。
……なぜアメリカは民族浄化の一方的な実行を盲目的に支援し続けるのか?なぜだ。私にはわからない。……
私が知っていて好きなアメリカは、同情にあふれ、心が広く、創造的で、多様で、忍耐強く、寛大なものだ。(※ヘミングウェイ…)
私の親しいアメリカ人の友人たちは正にそれを体現している。(※なぜ、アメリカでは、黒人奴隷たちが奏で始めた音楽が、やがて人々の間で隆盛をきわめることが可能だったのか)
しかしアメリカは、この酷い、一方的な、植民地主義の戦争を支援している。
……自由と民主主義の概念をアイデンティティの基盤にしている国が、人種差別主義の神聖政治を支援して金を使うのが、どれだけ酷く見えるか判っているのか?(※人種差別主義の神聖政治・・・)
私は昨年メリーとイスラエルへ行った。……
入植者たちが糞尿や使用済み生理ナプキンをパレスチナ人たちに投げつけるのを防ぐために、パレスチナ人の家はワイヤーや板を打ち付けてあった。パレスチナ人の子どもたちが学校へ行く途中で、イスラエルの子どもが野球のバットで殴り、それを親たちが囃し立てて笑っている。村じゅうが脱出して洞穴で暮らしていると、入植者がその土地にやってくる。丘の上のイスラエルの入植者が、ふもとのパレスチナ人の農地に下水を垂れ流す。「壁」だ。検問所と終わりのない侮辱。私は考え続けた。「なぜアメリカ人はこれを許容するんだ?なぜこれをOKだと思うんだ?それとも知らないのか?」
平和のプロセスについて。イスラエルはプロセスを望んでいるが、平和は望んでいない。「プロセス」によって入植者は地を奪い、入植地を作る。(※この表現は、端的にして巧みだ。プロセスと名のつくものは、いつでも“合法的”だ。だがその“合法性”は、「法を支配」した者たちの独善と傲慢によって捏造されたものだ。つまり、中東における平和のプロセスと思われているのは、「平和のプロセス」と名付けられたイスラエルの入植計画なのであり、米国により承認されたものに過ぎないというわけだ)
パレスチナ人が感情を爆発させると、最新鋭のミサイルや劣化ウラン弾で体を引き裂かれる。それがイスラエルの「自衛の権利」だからだ。(一方、パレスチナ人は持っていない)
(※まともな人間なら大抵は知っている。国家はいつも「自衛の権利」の名のもとに攻撃をすることを。そんなことは、誰だって知っていなければおかしい話だ)
……
好むと好まざると、アメリカは「西側」を代表している。そしてこの戦争を支持しているのが「西側」だ。モラルと民主主義について声高に語っているのに。
(※英国人なら、イーノのような人物でも、私たち日本人の想像以上に「西側」意識というものは強いのだろう。それはそうだ。確かに彼らは地政学的に「西側」にいるのだから。で、どこからの?エルサレムからの)
……
これが君たちすべてを不快にするのは申し訳なく思う。君たちは忙しいし、政治にアレルギーもあるだろう。しかしこれは、政治の問題ではない。私たちが作り上げた市民的な価値を破壊しているのが、私たち自身なんだ。この手紙には何の修辞的なこともない。もしも修辞的なことで済めばよかったのだが。

(以上、引用、終わり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »