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2014年11月 8日 (土)

中国グランプリの羽生選手

まさか、怠け者の自分が、一日に二度もブログを更新することになろうとは思わなかったが、
『羽生選手を守るために必要なこと』という記事を書いた時に感じていたあるしゅの危惧が、まさか現実のものになろうとは、さすがに思いもよらなかった。
だが、しかし、私の抱いた危惧は、予想だにしない形で現実のものになってしまったということになる。

羽生選手が、今日(11/8)の中国グランブリで、中国選手と事前練習時に衝突、流血にまでいたる大ダメージを負ってしまった。
それでも、どうやら本人の強い意志によって出場は強行されたのだ。
これを、いったい、どう受け止めれば良いのか。
もちろん、世界一になるということは、常人には思いも及ばぬ修羅の道をかいくぐらねばならないこともあるということを、私のような怠け者であってさえ、知らぬとは言わない。

しかし、とあえて言わなければならないし、また、周囲の人間も、棄権させるという勇断を下すべきケースだった。
私たちは、万全の態勢で臨む選手の超人的な演技を観て、その演技にいたる苦難の道も当然感じとっている。逆に、それを感じ取れない者はスポーツを観る資格はないとさえ言える。
それは、頭部に怪我を負いながらも試合に出場するよりも、遥かに苦痛に満ちたものかも知れない。
だから、本人は、「このぐらいの怪我がなんだ、ボクはもっと辛い練習に耐えて来たんだ」…そういう気持ち、そういう自負を表現したくてたまらなくなってしまったのかも知れない。
だが、そうといえども、彼は守られるべきだった。守られる必要があった。
「今、あえて無理をする必要はない場合もある」のだということを、誰かが教えてやるべきだった。

彼の選択は、試合を棄権するつもりだった中国選手のみならず、ショートで優位に立っていたロシア選手にも徒らなプレッシャーを与えてしまったし、あえて言えばとても失礼な振る舞いになってしまった。

彼の身にオーラのように漂う「崇高さ」というものを、私はTV越しながら、強く感じ取っていた。
しかし、その「崇高さ」というものを彼も、また周囲の人間も、「守り」「護る」べきだった。

彼の周囲に、彼を守り、かつ導く者が存在しないこと。
それが、何の運命の悪戯だろう、まさに「出来事」として、「衝撃的な衝突」として、表出されてしまったのである。

「崇高さ」の「悲劇」への反転が、これほど生々しい形では起こってほしくはなかったのだが、その杞憂としての予感が的中してしまったことに、何かいたたまれないものを感じざるを得ない。
何事もなく、あっけらかんと復活してくれるなら、それに越したことはない。

だが、彼の「崇高さ」を制御できるだけの人間が、彼の周囲にいないらしい環境は、継続するのだろう。

なんとかならないものか。
中国のスケート会場を覆う、日本語の企業宣伝と、これみよがしに展示されたクルマ。
それがまた、会場全体を覆うグロテスクさに拍車をかけていた。

もう、いい加減にしてほしいな、日本。

最終的には、そういうところに、やはり結論は行く。
かなり、うんざりだ。

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