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2014年11月 9日 (日)

『「残酷ショー」としてのフィギュアスケート?』

先日、私は、松谷創一郎という方がヤフー・ニュースのコラム欄に投稿した『「残酷ショー」としての高校野球』というコラムを引きながら、スポーツあるいはスポーツ選手をめぐる管理者とメディア、また観客のあり方について言及してみた。
今回のフィギュアスケートの中国グランプリにおいて、全く同様の構図が反復されてしまったことは返すがえすも残念であり、なぜ、私たちはこういう地平から自らの力で抜け出そうとしないのか、この国の国民の抱えている宿痾のようなものの根深さ、執拗さに恐怖すら覚えざるを得ない。
もっとも、「この国」などと、他人事のような言葉遣いをして客観めかしてみたところで、当然これは他人事ではない。
お前ならうまくやれるのかと言われれば、全くその自信はない。だが/しかし/そうではあっても、だ。
「こういう出来事を通じこういう認識を得た、こういう学習をした、こういう教訓を得た」ということが身にしみなければならないし、そういうことはいたるところで記録され、記憶されようとしなければならないはずだ。
そうでなければ、この手の「無駄な反復」はいつまででも執拗に繰り返されるのだし、その限りにおいてそこに反省の契機はいささかも訪れようとせず、「残酷趣味」を「良心の発露」と錯覚する人々が、これまた飽きもせず反復再生産されて行くばかりなのだから。
このままの状態が継続するなら、私たちの中の責任ある者らは、一向に危機管理など出来ないままだろうし、
私たちの中のヒーローは、精進した技それ自体のみでは評価が完結せず、人々の感情をいかに揺さぶったかという派生的要素なしには成立しないままなのだろうし、
私たちは私たちで、ヒーローに向かって「まだまだ足りない。われわれのために死んで来い、死んでみせてくれ。(死んだら英霊として奉ってあげるから)」と要求しかねないのだ。
いつでも致命的たり得る「失敗の本質」から目を逸らし続ける限り、それは強迫的に反復されざるを得ないのであり、こういうものの連鎖をどこかで断ち切る決断をしなければ、「悲惨な敗戦」もまた何度でも繰り返される可能性が高いのであり、この国の指導者らがそういう危機感を共有認識として有していないらしい様は、まさしく致命的と言える。

……ちょっと、感情が高ぶり過ぎたようなので、これもヤフー・ニュースのコラム欄に掲載された内田良という方の理知的な文章を書き写すことで冷静さを取り戻したい。
「名古屋大学院教育発達科学研究科・准教授」という肩書きを持つ氏は、その肩書きと内実の一致した活動から来る充実した筆運びにより、今度の「出来事」から浮かび上がってくる問題点を見事に指摘している。
以下、特に重要だと思われる箇所のみをピックアップさせていただくが、氏の脳震盪をめぐる記述は、スポーツ関係者にとって非常に参考になるものと思われるので、興味のある方は、全文をヤフー・ニュースによって確認されたら良いと思う。

(以下、引用開始)
『羽生選手の姿に「感動」の問題点』
この週末(11/8-9)、スポーツ医学の中核を担う「日本臨床スポーツ医学会」の学術集会が東京で開かれている。脳震盪に関する調査研究がいくつも発表され、日本のスポーツ界において、脳震盪への対応が、喫緊の課題であることを感じさせてくれる。
まさにその最中に、羽生結弦選手の事故が起きた。それは端的にいうと(脳震盪であったとすれば)その事後対応は、多くのスポーツドクターが目を疑う光景であったといってよい。
……中略……
ここで、最大の問題点は、その姿(※出場を強行しながらも幸い滑り終える事のできたこと)を、マスコミや観客、視聴者は、「感動した」「涙がでた」とたたえたことである。
……中略……
羽生選手の側には、本番をこなさなければならない事情もあるだろう。ファンの声に応えたい気持ちもあるだろう。そのことは個別の問題としておいておくとしても、どうしても気がかりなことがある。それは脳震盪に対する関心の低さと、脳震盪(の疑い)を乗り越える姿が美談化される時のスポーツ文化である。日本のスポーツ文化は、根性で危機を乗り越える場面を、拍手でもってたたえている。そこには感動の涙が溢れている。脳震盪の可能性が疑われるのであれば、どうか今回の出来事を機に、考え直してほしい。そうした「拍手」や「感動」は、選手の生命をむしろ危機に追いやる可能性があるのだということを。
(引用、終了)

氏は控えめに「スポーツ文化」という言葉を用いているが、専門家としての責任ある立場からそのような語句を選択しているだけで、私のような者からすれば、冒頭に記したように、これは日本文化全体の構造に関わる問題なのであり、厄介なことに、現代的なメディア問題が入れ子構造を形成しているのが実に煩わしい。
松谷氏がキーワードに挙げていた「リアリティショー」の構造が、私たちの陥りがちな独善に免罪符を与え、私たちを刹那の古代ローマ市民に仕立てあげる。
この入れ子構造を解きほぐし解体に導かなければ、私たちは私たちの「残酷趣味」を「良心の発露」と錯覚しながら、何者か達の無自覚な伴走者、共犯者としての生を生き続けることになってしまう。

私たちは、近代が産声を上げて以来、超越存在を持たない、あるいは諦めるかわりに、超人を求めるようになったのか。
だが、超人に救いを求めるなどということは、やはりどこかお門違いなのだ。
人が頑張っている姿を見て感動するという心の動きは当たり前のことであり、この当たり前がなくなってしまったらそれこそ大変なことではあるのだが、一方で、人の心の動きというものは、完全なフィクションであっても十分に感動できるものだということも忘れてはならないと思う。
現に、今年は、アニメの世界の雪の女王に、多くの人が感動したはずではないか。
なかなか平明な形で言い表すのは難しいが、人の心の動きはそのようなものであることをわきまえていること……この辺は一つ重要な点と言えるのではなかろうか。
「感動」という心の動きから、もう一歩先の心の動きというものがあるのではないかと想像してみること。
そんなことが、今、私たちに求められているのではなかろうか。
あるいは、相互に求め合うべきなのだ。

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