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2014年12月

2014年12月30日 (火)

フィギュア町田選手の突然の引退発表に驚く

何があったのだろう。
先日の演技を観て、羽生選手よりも、技にミスは多かったものの超越性への志向を感じさせてくれた町田選手が突然の引退発表をしたという。
前回のグランプリファイナルにおいては卒論仕上げとの兼ね合いで、万全の体調を維持するのが難しかったとのことで、今後は院に進学し、スポーツマネージメントを学びたい意向との事だが、
そういう諸々を重ね合わせて考えてみると、
自己の身体を用いて、何かを表現することよりも、表現のため、あるいは日本のスポーツの在り方のために、学問的なアプローチにより、何かを表現/改革していく長期戦の方を採ったということかも知れない。
もちろん、これは、私が傍目から見た憶測の類いに過ぎない。
傍目から見た憶測の類いには過ぎないが、しかし、フィギュアスケート界というものが、メディア的/広告的/商業的に注目されればされるほど、選手個々の身の処し方が異常に難しいものになっているのであろうことは、外野からみても容易に推察できるような気がする。
いったい私たち日本人というのは、フィギュアスケートに限らず、傑出した人々が、どこか痛々しい努力だか忍耐だかを強いられている姿を見るのがそんなに好きなのだろうか。
私は、そうは思わないし、そう思いたくもない。
町田選手が「崇高」と呼んだようなプログラム、ああいうものは、何か痛々しい努力の末に完成するものではないだろう。
もちろん、フィギュアスケートがスポーツである限り、技の完成度、卓越性が要求されるのは当然のことだ。
けれども、フィギュアスケートというジャンルの可能性を追求するという意味においては、単にスポーツというだけにはとどまらない要素が満載されているのがこのジャンルの魅力でもあってみれば、可能性の追求のバリエーションもまた豊富な形があっても良いものだろう。
私は、米国のプロフィギュアのショーの実態を全く知らないような人間に過ぎないが、フィギュアスケートの持つ可能性というものを考えれば、必ずしも米国的なものにならずとも構わない、しかし、プロの領域というものがあり得ても良いのではないかと思う。
町田選手という人は、そういうことも視野に入れているのかどうか分からないが、「高校野球」や「箱根駅伝」等をキラーコンテンツにしてしまうような無能でアイデアが枯渇している上に堕落し腐敗している日本のメディア界の食い物にされ切ってしまわないうちに、フィギュアスケートの有する可能性を良く知る人々が、新たなアイデアによって関与していくことは、必要なことだろうと思っている。

私たちは、日本国内の全産業中、国際評価が最も低い業界はメディア業界(記者クラブメディア界)だということを、もっともっと強く意識して然るべきだろう。

ああいう連中に、情報を扱わせている屈辱に、私たち日本人は、ネトウヨと呼ばれている人々のようにおかしな方向からではなく、もっともっと憤慨しても良いはずなのだ。

今、日本のメディア業界に巣食う大半の連中は「たかり」「ゆすり」「すり」「置き引き」「横取り」「盗っ人」などと呼称される連中と同等の人間ばかりである。

このような連中と傑出した人々が付き合わなくても、傑出した人々に関する「まともな情報」が「普通の情報」として欲する者には手に入るような社会環境を作らなくてはならない。

そういう社会環境が完成されて初めて日本は、次のステージに移行することが可能になるのだろうが、現実は、「記者クラブメディア」のようなカルテルを〈解体〉ではなく〈懐中〉に入れることで、社会の〈退嬰〉を何かからの〈脱却〉だと信じ込める程度のズレた人間が権力を持ってしまっているのだから事は厄介なのだ。

町田選手のような周りが見え、事態を把握できるような人物が、傍目からは不可解にも思えるような行動を採るのは、
したがって尋常ならざる環境に対処する在り方としては、むしろ、オーソドキシーに満ちたものと評価すべきなのだろう。

注目すべきスポーツの環境ばかりではない、政治の世界もまた然りであることを、私たちは承知しているべきなのだ。

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2014年12月14日 (日)

羽生選手、優勝おめでとう

万全な体調ではないかも知れない中、見事に優勝を勝ち取った羽生選手に敬意を表したいとおもいます。
あれだけの体験をしながらも、まさに不屈の精神で世界一を勝ち取る方の勁さというものを目の当たりにし、感服しました。

ところで、今回、競技スポーツを越えた超越性への志向を感じさせてくれたのは、町田選手でした。
彼も体調面に優れないところがあったようで、何度となくジャンプを失敗してしまいましたが、本人が言う通り「崇高なプログラム」…そこへ達しようとする競技選手を観られたことは大変貴重な経験でした。

今、選挙報道が始まりました。
アイスリンクの上で人間の身体の表現する崇高な動きを鑑賞させていただいてから、下卑た地べたの闘争の結果に一喜一憂しなければならない感触はえもいわれぬものがあります。
これが一方の人間の現実なのです。

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2014年12月13日 (土)

母さん、ボクのログイン画面はどこに行ったんでしょうね。

今ここで、こうやって書き込みが出来ていることからすれば、ログイン機能が喪われているわけではなさそうなのです。
けれども、自分が開設したブログの編集画面からログイン出来ないなんて。
母さん、ボクは、誰かの秘密でも、いつの間にか握ってしまったんでしょうかね?(笑)
そりゃ、誰にだって秘密にしておきたいことなどいくらでもありますよ。
ボクにも、母さんにでさえ知られたくない秘密なんて、いくらでもあります。
でも、母さん、秘密などというものは、けっきょく暗黙の了解のうちに成り立たせるしかないもんだとおもうのです。
ニフティ・ココログの利用規約を見てみてくださいよ。
「個人情報」を聞いたこともない会社に提供しますと書いてあります。
母さん、ボクは、それに同意して、そのかわりにこのブログを利用できているんです。
でも、ボクの「個人情報」は、「秘密」にはちがいないはずなんです、そう思いませんか?母さん。
「秘密」などというものは、能力のある者、権限のある者、それに悪意のある者にとっては、筒抜けのはずなんです。
だから、「秘密」なんてものは、バラされたら、そりゃ、いろいろ支障は生じるけれども、
バラされて完全に面目を喪うような「秘密」、そんな「秘密」を持ってしまっているなら、それは作ってしまった方に非があるといえるんじゃないでしょうか。
母さん、ボクは、母さんの期待にこたえられない、ダメで悪い子なので、母さんにはとてもではないけれど言えないような恥ずかしい秘密をたくさん持ってしまいました。
もし、母さんが、ボクのことが気になり、ボクの部屋をあら捜しした上、ボクの秘密をたくさん暴いてしまったとしても、それはボクの自業自得です。
母さんにバレて、面目を喪うような秘密を作ってしまったボクがいけないんです。そのくらい、分かっていますよ。
でも、母さん、ボクは母さんを信じていますから、母さんが仮にボクの秘密を握ったとしても、母さんならそのことも内緒にして、ただ静かにボクのダメなところをなくすよう導いてくれるのではないかとおもっているのです。
そういう信頼関係がなければ、親子関係など続けていても意味がないですよね。
母さん、
それにしても、ボクのログイン画面はどこに行ってしまったんでしょうね?
ボクは今言ったとおり、人様の「秘密」などに特段の興味も嗜好も残念ながら持ち合わせてはいないんです。
「秘密」など詮索しなくても、「やっていること、言っていること」のレベルを見れば、その人の価値など、いくらでも判断できますよね。
母さん、母さんがボクの「秘密」をあれこれ捜さないのは、母さんがボクについて、もう諦めている、いえ、達観しているからかなともおもうのですが、ボクは母さんの子ですから、どんなに恥ずかしい秘密を持ってしまったとしても、ひどい、下卑た子にはなりませんよ。
それが分かっているからこそ、“ちゃんと”放っておいてくれているのかも知れませんね。

それにしても、母さん、世の中には、人様に嫌がらせをしてほくそ笑むような人間が、案外ほんとにいるんだってこと、最近になってよぉく分かって来ました。
遅ればせながら、母さんが、ボクのことを、そういう人間にだけはならないようにと育ててくれたことに感謝しています。

長くなりました。

もう、あまり言葉を交わすこともなくなりましたが、こんな「秘密」のブログですから、心情の吐露もできました。

母さん、
母さんの知らないところで、世界はどんどん世知辛くなってきていますよ。

くれぐれも、おからだには、十分、お気をつけてお過ごしくださいますよう。

では、また。

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2014年12月 9日 (火)

「誰がためのオリンピックなのか?」という問いがリアリティを帯びていることを認めたIOC

日本人の死にたくなるような能天気さを置き去りにして、IOCは「誰がためのオリンピックなのか?」という問いが、リアリティを帯びていることを認めた。
これは、賢明な判断だと思う。
国威発揚と商業主義との間で揺れてきた、あるいは両者の相乗作用で、スペクタクル性のみが注目され、開催地負担がただならぬところまで肥大化していたオリンピックは、
市民の中に
「誰がためのオリンピックなのか?」
という根本的な問いを目覚めさせた。
今、市民スポーツの中で、静かながらも持続的なブームになっているのは、ランニングでありジョギングだろう。
「誰がためのサッカーW杯か」という問い掛け同様、土建業界と巨大メディア業界のためにひたすら奉仕でもしているかのような巨額スペクタクルに不審の目を向ける市民が世界中に増殖している証左だと言える。
たしかに、オリンピックにしてもW杯にしても、人類の肉体が記録してきた数値やパフォーマンスの壁を突き破ろうとして繰り広げられる祭典を、単に観客という立場であっても参加したり目撃したりするのは得難い体験になり得るというのは確かなところだろう。
実際、自分自身、若い頃はスポーツをするのも観るのも好きだったし、壮年に達してしまった今でもスポーツ観戦は趣味の範疇にある。
そういうスポーツに親和的な人間であってすら、近年の巨大メディアを介した競技スポーツのバカ騒ぎには、正直うんざりさせられるものがある。

「たかり」

汚い言葉だが、その一言をやはり、想起せざるを得ない。

長いストイックな時間なしには存在し得ない選手の周囲に群がり、はしゃぎ回る「たかり」の連中。
ともすれば「選手」そのものよりも目立とうとしているかのような「たかり」の連中。
目に見える「たかり」の背後には目に見えない同じような「たかり」連中が数多存在することをいやが上でも想像させられざるを得ない常軌を逸した喧騒。

何なんだろう、この人たちは。

「誰がための祭典なのか?」

するスポーツであれ、観るスポーツであれ、スポーツというもの、それ自体を楽しみたい人たちに、必ずそう思わせるような派生要素の数々。

CMを見せられているのか番組本編を見ているのか分からない、TV番組と変わらぬ本末転倒性。
そういう倒錯の行き着く果ては「公共性」の破綻だ。

「公共の財」たる物資と生身の選手に群がる「たかり」どもの祭典。

カネのためなら何でもやる腐敗した巨大メディアの空騒ぎ。

これで、うんざりするなという方が無理がある。

能天気な日本人は、東京のオリンピックを決めたあと、今度は冬季オリンピックに札幌が名乗りを上げるのだという。
それを手放しで喜んでみせる人たち。
彼ら巨大メディア他、手放しで喜んでいる連中には、それなりの理由があるんだよ。
いい加減、気付きましょうよ。

スポーツが好きなら、お祭り騒ぎ以前に、まず、スポーツを愛そうよ。

選挙前に、わざわざこんなことを自ブログにエントリーするのも、一事が万事だと思うからだ。

IOCは、さすがにバカでも能天気でもないから、それなりの危機意識は持っていますよ。
私たち市民は、本来、IOC以上に強い危機意識を持っていなければならないはずなのに、日本人と来たら。

いや、本当に「日本人ときたら」なんだよね。
教育程度は高いのに、これだけ能天気な羊の群れ度を誇る集団って、世界でもかなり稀な方だよ。

「世界の中心で咲き誇る」?
頼むから、もう勘弁してくれ。

わかったわかった、そんなにお望みなら、もう毎回、オリンピックは、日本でやらせてもらえばいいよ。
日本人なら、国が破産するまで、大喜びでやり続けるからさぁ。
オーケーオーケー。これで万事丸くおさまるよ、IOCさん。

(あー、すげー、荒んでるな、オレ(笑))

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