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2015年1月

2015年1月21日 (水)

耐えられない世界の「演劇」臭さ

このところ「世界」で起きている「事件・事故」あるいは「経済現象」も含めて、どうにもそこから漂ってくる「演劇臭」のようなものに耐え切れそうもない。
洒落にならないのは、それらの“事象”により、実際に命を落としたり、生活を破壊されたりする方が膨大な数に上る点なのだが、
それを承知の上でなお、
「人工甘味料」のように後味の悪い「事件・事象」が次から次へと起こり/起こされ、そういうものに、たんたんと生きたいと願っているだけの多くの一般市民が巻き込まれていくことの理不尽さ、合点の行かなさというものを、誰かが指摘して口に出さなければ、
事態は益々悪化の一途をたどるしかないのではないかと思い、このようなものを書くことになる。

“世界”が、こういう『胡蝶の夢』のような事態にたちいたっているのは、いうまでもなく、世界中の人々の「生活」を置き去りにして、いい気な連中が“世界”を手玉にとりたくてとりたくて下らない無駄な足掻きだか動きだか投資だか知らないがしてみせるからだろう。

前回の、ウルグアイ大統領の演説に見たように、“世界”の支配層が達成したいと思っているだろう何事かは、市民の普通の「生活」とは、もはや殆んど何の関係もないものだ。

何の関係もないのにも関わらず、市民を「動員」したくてあるいは「共謀」させたくてたまらないがゆえに、やることなすことから「リアリティ」が喪われていく。
私たちが「リアリティショー」に吸引されるのは、自らの周囲の「現実」も、「現実に起きた事を伝えているはずのニュースの中の現実」も、あまりにも「現実感」に乏しいからに他なるまい。
だから「現実らしい現実」を求めて、「ショー化」されていようが何だろうが「ひりひりしたリアリティ」を思わず求めてしまうのである。

これは、ボードリヤールが「シミュラークル」と呼んだものと同じことだろう。

「シミュラークル」が「シミュラークル」を呼び、しかし、その過程の中で、実際に人の命が奪われたり、生活が壊されたりするために、「現実」を扱わなければならないはずの政治家や行政官僚が、責任逃れのために益々「シミュラークル」の屋上屋を重ねていくことになる。

これだけ“世界”のことを心配しているのに、実際に自分が事故にあったり病気になったりすれば、“現実”の取り返しのつかなさに応じて単に死んで行くだけなのに。
あるいは、“現世”の己れの繁栄をとことん夢見て、1%の仲間入りを果たしてみたところで、そこに欠落している“現実感”に飢餓感を覚えながら、結局は単に死んでいくだけなのに。

仏教や道教を持ち出すまでもなく、古来よりこのような“世界観”が存在していたことは、
我々の素晴らしい現在が、いかに古代よりイノベーションを達成していないかを、親切にも教えてくれる。

ただし、現在は、大勢の人間がジタバタし過ぎるため、滑稽さの度合いが著しくなっていることは確かなのだろう。

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2015年1月14日 (水)

文明の移動と人類の未来

いきなり、大袈裟なタイトルを思い付いてしまったが、「財」の集中が必ずしも「文明」の発展には貢献しなくなるという経験を人類は何度も経験して来たはずなのにも関わらず、「文明」の内部にはそれを解消する論理が発生しがたい(あるいは発生していても当該文明の内部においては殆んど無視される)ゆえに、「文明」は盛衰し、条件の異なる場所へ移動していくのではないかと、ふと想起したからだ。
そんなことを想起したのも、ある政治家の演説を日本語訳で読むことが出来たからだ。
『THE NEW CLASSIC』というニュースサイト(?)がその日本語訳を掲載していた。
2012年に開催されたリオ会議(国連持続可能な開発会議)におけるウルグアイのホセ・ムヒカ大統領のスピーチ。
現代の政治家による最良の形の演説がどのようなものか、私たちはこのスピーチを読むことによって知ることになるだろう。
政治業というものは、ある意味では相当困難な職業であり、企業経営者と同様に自らの責任を持つ共同体の利益を常に気に掛けていなければならず、かといって、何の理想も掲げず単なる利益共同体の代表者として利潤のみを追い求めていても、あるいは芸術家や作家等の知識人のように理念形ばかりを語っていても、政治家としての敬意も権威も得られはしない。
政治家のスピーチとは、常に現実に裏打ちされながら、同時に、現実を(現実的に)越え出ようとするパッションを秘めていなければならない。
その点において、ムヒカ大統領は、自国の置かれている現実をきちんとふまえた上で、なおかつ、世界の未来について政治家として何が言えるかを他国の首脳に考えさせるという形で過不足なく語り尽くしている。
日本の首脳にムヒカ大統領のようなスピーチをしてみせろと言っても、日本の現状がそれを許さない。
しかし、私たちは、この世界には立派な指導者がいることを知らな過ぎるし、そもそも立派な政治家の演説というものにきちんと触れた経験さえ乏しい。
私は、前回のエントリーで、我が国の首相の2015年の年頭所感なるもののキーセンテンスに言及して批判してみた。
書きながら虚しさを覚えざりを得ない我が国首相の単なる情緒的な願望の表出と、人類のあるべき未来について透徹したパースベクティブの内にとらえて具体化を促そうとするウルグアイ大統領のスピーチとを比較し、その彼我の落差を思う時、私たち日本人がどういうレベルで生きているのかについて暗澹たる思いにとらえられざるを得ないところがある。
日本の低成長とは、例えばの話だが『源治物語』を有するような日本人の一つの「文明」に対する回答なのではないかとも思うのだが、ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチに何かを刺激される日本人は、未だに層と呼べるようなボリュームで存在している可能性はあると思いながら、日本語訳を掲載させていただく。

(引用開始)
この場所にいらっしゃる全ての政府、そしてその代表の方々に感謝申し上げます。また、リオ会議に招いていただいたブラジルのジルマ・ハセフ大統領にも感謝申し上げます。
これまで素晴らしいお話をされてきたプレゼンテーターの方々にも感謝申し上げます。国を代表する者として、人類にとって必要となる国家同士の話し合いをおこなう素直な志がこの場所で表現されることを考えています。
しかし、私が抱いている厳しい疑問を述べさせて下さい。
今日の午後から、これまで議題となっていたことは持続可能な発展と世界の貧困を撲滅することでした。我々が真に抱いている問題とは、一体何なのでしょうか?現在の豊かな国々が辿ってきた発展と、その消費モデルを真似することでしょうか?
質問させてください。ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか?
呼吸をしていくための十分な酸素は残るでしょうか?同じことを別の質問で言うならば、西洋の豊かな社会がおこなっている“傲慢な”消費を世界の70から80億人もの人々がおこなうための資源は、この地球上に存在するのでしょうか?それは本当に可能でしょうか?
あるいは、異なる議論が求められるのでしょうか?
なぜ我々は、このような社会をつくってしまったのでしょうか?
市場経済の子どもたち、資本主義の子どもたち、すなわち私たちが間違いなくこの無限ともいえる消費と発展を求める社会をつくり出してきたのです。市場経済が市場社会を生み出し、このグローバリゼーションが世界の果てまで資源を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
これほどまでに残酷な競争によって成り立っている消費社会の中で、「みんなで世界を良くしていこう」という共存共栄の考え方はできるでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを述べるのは、リオ会議の重要性を批判するためではありません。むしろ、その反対です。我々の前に立っている巨大な危機は、環境問題ではないのです。それは、政治的な危機なのです。
現代においては、人類がつくりだしたこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、この消費社会によって人類はコントロールされているのです。私たちは発展すべく生まれてきたわけではありません。幸せになるため、この地球にやってきたのです。人生は短く、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命より高価なものは存在しません。
常軌を逸した消費は世界を破壊しており、高価な商品やライフスタイルが人々の人生を破滅させているのです。
社会は消費という歯車によって回っており、我々はひたすら早く、そして大量の消費を求められます。もしも消費がストップするならば、経済が麻痺して、そうすれば不況の魔物が我々の前に現れるのです。
常軌を逸した消費を続けるには、商品の寿命を縮めて、出来る限り多く売る必要があります。つまり、10万時間持つ電球をつけれるのに1千時間しか持たない電球しか販売できない社会にいるのです。それほど長く持つ電球は、市場社会には良くないのでつくることはできないのです。人々がより働くため、そしてより販売するために「使い捨ての社会」を続ける必要があるのです。悪循環にお気づきでしょうか?
これはまぎれもなく政治問題ですし、我々はこの問題を〈異なる解決方法〉(強調:引用者)によって世界を導く必要があるのです。石器時代に戻れとは言っていません。市場を再びコントロールする必要があると言っているのです。私の考えでは、これは政治問題なのです。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。
「貧乏な人とは、少ししか持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
この言葉は、私たちの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源ではないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということです。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界で最も美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さな国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車などのリボ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自らにこんな質問を投げかけます。
それが人類の運命なのか?
私の言っていることはとてもシンプルなものです。発展は幸福を阻害するものであってはなりません。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。幸福が私たちにもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。
(引用、終了)

このようなスピーチに触れて、私はなぜ「文明の移動」などということに思いを馳せてしまったのか。
だが、「ある理想への距離」というものを考えてみると、あれだく栄えていた「文明」がなぜ消滅し、まさに「文明の中心」と思われていた所から見れば、「辺境の地」のようなところで「文明」が発生したりするのも、なるほどと頷ける感じがしたのだ。

少なくとも、今の“繁栄”は、貧困の撲滅のためだったのか?
それとも、ムヒカ大統領の言う「政治的な」動機、政治的虚栄心を満たすために成し遂げられたものだったのか?
さて、仮に後者だとして、何らかの「幸福」は手に出来たのか?
むしろ、「幸福」とはどのようなものなのかが忘れ去られ、分からなくなってしまっただけではないのか。
今や私たちは「バベルの塔」ならぬ「バベルの蟻の巣」の住人でしかないのではないか?
造り上げられた「繁栄」の状態が、「あるイデア」なり「幸福の形」なりから、距離的に遠いものから順番にたおれて消滅するものを、私たちは「文明」と呼んでいるだけではないのか?

こう考えてみると、日本とは、「世界の中心で再び輝く」どころか、なぜ今の繁栄があるのか自分たち自身が良く理解していないような虚飾に満ちた国として、最速で消滅する国家の候補でしかないのではないか。
どうするのか。

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2015年1月 1日 (木)

コンプレックスの塊は、あるいはそうであるがゆえに、“政治”のW杯開催を夢見るのか?

何事もトップを狙う意気込みは大事だろう。当然のことだ。
誰だってトップを狙っている。
当たり前だ。
こういうことを「言わずもがな」という。
「言わずもがな」とは、口語的な表現にするなら「言うまでもない」ということになるし、「口にする必要もない」ということだし、もっとくだけた言い方をするなら「言わせんな」ということだろう。
似たようなニュアンスの表現として「言っても仕方がない(しょーがない)」「言ったところでどうにもならない」というような言い方があるが、このような言い方をしてしまうと、逆にネガティブなニュアンスが濃くなるのは確かだろう。
日本古来よりある謙遜と謙譲の文化が、ネガティブな方向に向き過ぎると、実際実力以上に引いてしまいがちだという傾向は確かにあるのだが、
それもこれも、正確な自己認識があっての賜物であり、自己を客体化して評価/批評するという分析的過程を経た上でなければ、ポジティブな自己主張も、「謙遜」という文化なき人々には必要以上にネガティブに見えるかも知れない高度に洗練されたイデアから照らし返された峻厳な自己評価たるべき言も、たちまち滑稽な夢想や懈怠心の表出に堕するばかりとなる。
「言うまでもない」内心の希望と目標を、虚仮脅かしのような自己認識によって「実現可能」であるかのように吹聴してまわり、かえってチームメイトをこわばらせ、自らの属する集団を無様な敗退に導いた無惨なバカがいたことを私はこのブログにも書いたはずだが、それを遥かに上回る能天気にもほどがある人物が、我が国の内閣総理大臣を務めているのだとすれば、
その周囲だが下だか上だか横だか知らないが、
いずれにせよ、広い意味における共同体の一員である私たちはどうすれば良いのか、サッカー日本代表のメンバーらが見せたのと同じような奇妙なこわばりやこだわりや戸惑いが、辺り一面に瀰漫していくのは避けがたいのではなかろうか。
我が国の内閣総理大臣安倍晋三は、(NHKなるふざけた機関の報道によれば)年頭の所信表明にあたって「世界の中心で輝く国にする」とか何とか、のたまったのか、のたまうかするつもりらしい。
まず、「世界の中心」なる言葉だが、この言葉、地球が平面であると信じられていた時代ならいざしらず、少なくとも現在では比喩表現としてしか通用しない言葉であるはずなのだが、一国の内閣総理大臣が口にする言葉としていかがなものか。
FIFAのランキングが何位だったのかもう忘れてしまったが、覚えられないほど低いランキングの国の選手に「見ていてくれ、オレタチは優勝するつもりでやる」とか何とか虚勢を張られても気の利いた反応することすら困難なように、唐突に「世界の中心」なる言葉を持ち出されて戸惑わずにいられる日本国民がどれだけいることだろう。
目標にも願望にも鼓舞にもなっていない、ただ徒らに空しい虚勢の見本のような表現。
ポテンシャルがあるということと、今現在がどうであるかということとは、全く別であるのに、リーダーやリーダー格の人物が「オレタチは優勝できる、優勝できるぞ」と繰り返し叫び立てても、メンバーのモチベーション向上につながるはずもないことは、普通の常識さえあれば誰でも分かるはずだろう。
そういう誰でも分かるはずのことを、あえて分からない振りをして「仰るとおり、仰るとおり」と称賛してやまないような人間が確かに必ず少数ながらも湧いて出ることも確かだろうが、そういう人物がどういう類いの人物か、これももはや言うまでもない/多言を要しないことだ。
「一体全体どうなっているんだ、何がどうなってるんだ。で、オレタチにどうしろってんだ」
常に具体性に欠けた指示を出すリーダーを持ってしまった組織のメンバーというのは、まずそこから考え始めなければならない。
そもそも「世界の中心」などというものは、曖昧な上に、相対評価の最たるものであり、自負自尊、自己評価だけでは一切確定もしないし完結もしない。
まだしも「優勝」というものなら、ルールの中で明確に定められて間違いなくあるものなのだから、「優勝したい」という願望を口にすることはどんな弱小チームにも許されていることだが、「世界の中心になりたい」なる願望は、あらゆる知性をかなぐり捨てることで、初めて口にできることかも知れない、とりわけ現代にあっては。
その上で「輝く」というのだ。
「輝く」というのも、間違いなく比喩表現でしかないのだが、殆んど意味をなしていない。
なるほど、競技選手が優勝して表彰台のてっぺんに上がった姿は“輝かしい”。しかし、それは、「表彰」することを前提とした一定の厳密なルールの中で競い合った結果だからであり、世にそのような「競技世界」などというものはそうそうあるものではない。
そうそうあるものではないがゆえに、「競技世界」に似せた顕彰制度を設けている例は数多あるが、それらは主として個々人またはそれを準じるものを讃えて、ひいては共同体なり組織なりの活性化のために設けられているものであり、「輝く国」なる曖昧模糊とした自己満足の比喩表現とはまったく異なる次元でなされているものだ。

年頭にあたって、こんな子どもに諭すようなことを、いちいち記している自分が虚しくなってくるが、とにもかくにも、我が国の総理大臣が、そのような言葉で(限りなく好意的に言えば)国民を鼓舞しようというのだから、それに対する一国民の反応を痕跡と残すことにも多少の意味はあるだろうと思い、こうして記しているのである。

一国の首相の言葉というのは、「個人の見解を述べたまでだ」では済まないところがあるからこそ、多くの者が寄ってたかって「総理の言葉」に関与するのだが、いったい一国民にこのような反応を引き起こさせてしまうこの国の機構はいかなることになっているのか。
はなはだ心許ないと言わなければならない。


「そんなことを言っている口しか達者のものがない連中が絶対に優勝などすることなどありっこがないように、そんなことを言ってしまう総理大臣を有している国が絶対に“世界の中心”になることも“輝く”こともないない、あり得ない」

「恥はかき捨て、世は情け」(笑)とは、傍若無人な輩の言い訳に過ぎず、堅気ではないがゆえに「吐く」ことの可能だった「いきがり」の表現だろう。
かりにも一国の内閣総理大臣ともあろうものが、それと同等のレベルから同等の捨て台詞のようなものを吐いているようでは、むしろ、墜落の加速度はいやましに増すだけだろう。

〈もう別の道を模索すべきだ〉
〈もう別の道を模索すべきなんだ〉

私は、昨年の大晦日にあたる昨日、『晴耕雨読』というブログ系サイトのコメント欄に以下のようなコメントをした。
日本人として日本に生きることが恥ずかしくないように、以下をもって不特定多数(不特定少数?)の皆様への年頭のご挨拶にかえさせていただきたい。


(以下、転載。一部改)

強権と怯懦とは、矛と楯の関係であり、彼らは権力を振り回しながら振り回された権力にみずから怯え、自己矛盾を産出し、産出した自己矛盾に溺れながら解決不能という毒に麻痺し、周囲を凶暴な圧力の中に捲き込みながら破産と破滅へと向かう。
こういう悲惨にして滑稽な悪循環に私たちが捲き込まれなけれならない“義理”は一切ないのだが、人々の怠惰と脆弱さとが、反知性的な集団主義の洪水となって瞬く間に押し寄せ、私たちの足元を掬い、私たちを押し流してしまうかも知れない。
そんなときでありながらもなお、このような局面に私たちがあるということに気付いている人はまだごくわずかであり、貧困あるいは流離という不運に見舞われた人たちだけが、よく私たちにあるしゅの「知」を授けようとするだろう。
だから私たちは、彼らに導かれるようにして、「知的活動」の方へと強く赴かなければならない。
泡を喰う悲惨な滑稽さに不意を突かれて靴底の泥濘に足を滑らせないよう細心の注意をはらいながらも。

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