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2015年1月14日 (水)

文明の移動と人類の未来

いきなり、大袈裟なタイトルを思い付いてしまったが、「財」の集中が必ずしも「文明」の発展には貢献しなくなるという経験を人類は何度も経験して来たはずなのにも関わらず、「文明」の内部にはそれを解消する論理が発生しがたい(あるいは発生していても当該文明の内部においては殆んど無視される)ゆえに、「文明」は盛衰し、条件の異なる場所へ移動していくのではないかと、ふと想起したからだ。
そんなことを想起したのも、ある政治家の演説を日本語訳で読むことが出来たからだ。
『THE NEW CLASSIC』というニュースサイト(?)がその日本語訳を掲載していた。
2012年に開催されたリオ会議(国連持続可能な開発会議)におけるウルグアイのホセ・ムヒカ大統領のスピーチ。
現代の政治家による最良の形の演説がどのようなものか、私たちはこのスピーチを読むことによって知ることになるだろう。
政治業というものは、ある意味では相当困難な職業であり、企業経営者と同様に自らの責任を持つ共同体の利益を常に気に掛けていなければならず、かといって、何の理想も掲げず単なる利益共同体の代表者として利潤のみを追い求めていても、あるいは芸術家や作家等の知識人のように理念形ばかりを語っていても、政治家としての敬意も権威も得られはしない。
政治家のスピーチとは、常に現実に裏打ちされながら、同時に、現実を(現実的に)越え出ようとするパッションを秘めていなければならない。
その点において、ムヒカ大統領は、自国の置かれている現実をきちんとふまえた上で、なおかつ、世界の未来について政治家として何が言えるかを他国の首脳に考えさせるという形で過不足なく語り尽くしている。
日本の首脳にムヒカ大統領のようなスピーチをしてみせろと言っても、日本の現状がそれを許さない。
しかし、私たちは、この世界には立派な指導者がいることを知らな過ぎるし、そもそも立派な政治家の演説というものにきちんと触れた経験さえ乏しい。
私は、前回のエントリーで、我が国の首相の2015年の年頭所感なるもののキーセンテンスに言及して批判してみた。
書きながら虚しさを覚えざりを得ない我が国首相の単なる情緒的な願望の表出と、人類のあるべき未来について透徹したパースベクティブの内にとらえて具体化を促そうとするウルグアイ大統領のスピーチとを比較し、その彼我の落差を思う時、私たち日本人がどういうレベルで生きているのかについて暗澹たる思いにとらえられざるを得ないところがある。
日本の低成長とは、例えばの話だが『源治物語』を有するような日本人の一つの「文明」に対する回答なのではないかとも思うのだが、ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチに何かを刺激される日本人は、未だに層と呼べるようなボリュームで存在している可能性はあると思いながら、日本語訳を掲載させていただく。

(引用開始)
この場所にいらっしゃる全ての政府、そしてその代表の方々に感謝申し上げます。また、リオ会議に招いていただいたブラジルのジルマ・ハセフ大統領にも感謝申し上げます。
これまで素晴らしいお話をされてきたプレゼンテーターの方々にも感謝申し上げます。国を代表する者として、人類にとって必要となる国家同士の話し合いをおこなう素直な志がこの場所で表現されることを考えています。
しかし、私が抱いている厳しい疑問を述べさせて下さい。
今日の午後から、これまで議題となっていたことは持続可能な発展と世界の貧困を撲滅することでした。我々が真に抱いている問題とは、一体何なのでしょうか?現在の豊かな国々が辿ってきた発展と、その消費モデルを真似することでしょうか?
質問させてください。ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか?
呼吸をしていくための十分な酸素は残るでしょうか?同じことを別の質問で言うならば、西洋の豊かな社会がおこなっている“傲慢な”消費を世界の70から80億人もの人々がおこなうための資源は、この地球上に存在するのでしょうか?それは本当に可能でしょうか?
あるいは、異なる議論が求められるのでしょうか?
なぜ我々は、このような社会をつくってしまったのでしょうか?
市場経済の子どもたち、資本主義の子どもたち、すなわち私たちが間違いなくこの無限ともいえる消費と発展を求める社会をつくり出してきたのです。市場経済が市場社会を生み出し、このグローバリゼーションが世界の果てまで資源を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
これほどまでに残酷な競争によって成り立っている消費社会の中で、「みんなで世界を良くしていこう」という共存共栄の考え方はできるでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを述べるのは、リオ会議の重要性を批判するためではありません。むしろ、その反対です。我々の前に立っている巨大な危機は、環境問題ではないのです。それは、政治的な危機なのです。
現代においては、人類がつくりだしたこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、この消費社会によって人類はコントロールされているのです。私たちは発展すべく生まれてきたわけではありません。幸せになるため、この地球にやってきたのです。人生は短く、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命より高価なものは存在しません。
常軌を逸した消費は世界を破壊しており、高価な商品やライフスタイルが人々の人生を破滅させているのです。
社会は消費という歯車によって回っており、我々はひたすら早く、そして大量の消費を求められます。もしも消費がストップするならば、経済が麻痺して、そうすれば不況の魔物が我々の前に現れるのです。
常軌を逸した消費を続けるには、商品の寿命を縮めて、出来る限り多く売る必要があります。つまり、10万時間持つ電球をつけれるのに1千時間しか持たない電球しか販売できない社会にいるのです。それほど長く持つ電球は、市場社会には良くないのでつくることはできないのです。人々がより働くため、そしてより販売するために「使い捨ての社会」を続ける必要があるのです。悪循環にお気づきでしょうか?
これはまぎれもなく政治問題ですし、我々はこの問題を〈異なる解決方法〉(強調:引用者)によって世界を導く必要があるのです。石器時代に戻れとは言っていません。市場を再びコントロールする必要があると言っているのです。私の考えでは、これは政治問題なのです。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。
「貧乏な人とは、少ししか持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
この言葉は、私たちの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源ではないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということです。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界で最も美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さな国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車などのリボ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自らにこんな質問を投げかけます。
それが人類の運命なのか?
私の言っていることはとてもシンプルなものです。発展は幸福を阻害するものであってはなりません。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。幸福が私たちにもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。
(引用、終了)

このようなスピーチに触れて、私はなぜ「文明の移動」などということに思いを馳せてしまったのか。
だが、「ある理想への距離」というものを考えてみると、あれだく栄えていた「文明」がなぜ消滅し、まさに「文明の中心」と思われていた所から見れば、「辺境の地」のようなところで「文明」が発生したりするのも、なるほどと頷ける感じがしたのだ。

少なくとも、今の“繁栄”は、貧困の撲滅のためだったのか?
それとも、ムヒカ大統領の言う「政治的な」動機、政治的虚栄心を満たすために成し遂げられたものだったのか?
さて、仮に後者だとして、何らかの「幸福」は手に出来たのか?
むしろ、「幸福」とはどのようなものなのかが忘れ去られ、分からなくなってしまっただけではないのか。
今や私たちは「バベルの塔」ならぬ「バベルの蟻の巣」の住人でしかないのではないか?
造り上げられた「繁栄」の状態が、「あるイデア」なり「幸福の形」なりから、距離的に遠いものから順番にたおれて消滅するものを、私たちは「文明」と呼んでいるだけではないのか?

こう考えてみると、日本とは、「世界の中心で再び輝く」どころか、なぜ今の繁栄があるのか自分たち自身が良く理解していないような虚飾に満ちた国として、最速で消滅する国家の候補でしかないのではないか。
どうするのか。

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