« フィギュア町田選手の突然の引退発表に驚く | トップページ | 文明の移動と人類の未来 »

2015年1月 1日 (木)

コンプレックスの塊は、あるいはそうであるがゆえに、“政治”のW杯開催を夢見るのか?

何事もトップを狙う意気込みは大事だろう。当然のことだ。
誰だってトップを狙っている。
当たり前だ。
こういうことを「言わずもがな」という。
「言わずもがな」とは、口語的な表現にするなら「言うまでもない」ということになるし、「口にする必要もない」ということだし、もっとくだけた言い方をするなら「言わせんな」ということだろう。
似たようなニュアンスの表現として「言っても仕方がない(しょーがない)」「言ったところでどうにもならない」というような言い方があるが、このような言い方をしてしまうと、逆にネガティブなニュアンスが濃くなるのは確かだろう。
日本古来よりある謙遜と謙譲の文化が、ネガティブな方向に向き過ぎると、実際実力以上に引いてしまいがちだという傾向は確かにあるのだが、
それもこれも、正確な自己認識があっての賜物であり、自己を客体化して評価/批評するという分析的過程を経た上でなければ、ポジティブな自己主張も、「謙遜」という文化なき人々には必要以上にネガティブに見えるかも知れない高度に洗練されたイデアから照らし返された峻厳な自己評価たるべき言も、たちまち滑稽な夢想や懈怠心の表出に堕するばかりとなる。
「言うまでもない」内心の希望と目標を、虚仮脅かしのような自己認識によって「実現可能」であるかのように吹聴してまわり、かえってチームメイトをこわばらせ、自らの属する集団を無様な敗退に導いた無惨なバカがいたことを私はこのブログにも書いたはずだが、それを遥かに上回る能天気にもほどがある人物が、我が国の内閣総理大臣を務めているのだとすれば、
その周囲だが下だか上だか横だか知らないが、
いずれにせよ、広い意味における共同体の一員である私たちはどうすれば良いのか、サッカー日本代表のメンバーらが見せたのと同じような奇妙なこわばりやこだわりや戸惑いが、辺り一面に瀰漫していくのは避けがたいのではなかろうか。
我が国の内閣総理大臣安倍晋三は、(NHKなるふざけた機関の報道によれば)年頭の所信表明にあたって「世界の中心で輝く国にする」とか何とか、のたまったのか、のたまうかするつもりらしい。
まず、「世界の中心」なる言葉だが、この言葉、地球が平面であると信じられていた時代ならいざしらず、少なくとも現在では比喩表現としてしか通用しない言葉であるはずなのだが、一国の内閣総理大臣が口にする言葉としていかがなものか。
FIFAのランキングが何位だったのかもう忘れてしまったが、覚えられないほど低いランキングの国の選手に「見ていてくれ、オレタチは優勝するつもりでやる」とか何とか虚勢を張られても気の利いた反応することすら困難なように、唐突に「世界の中心」なる言葉を持ち出されて戸惑わずにいられる日本国民がどれだけいることだろう。
目標にも願望にも鼓舞にもなっていない、ただ徒らに空しい虚勢の見本のような表現。
ポテンシャルがあるということと、今現在がどうであるかということとは、全く別であるのに、リーダーやリーダー格の人物が「オレタチは優勝できる、優勝できるぞ」と繰り返し叫び立てても、メンバーのモチベーション向上につながるはずもないことは、普通の常識さえあれば誰でも分かるはずだろう。
そういう誰でも分かるはずのことを、あえて分からない振りをして「仰るとおり、仰るとおり」と称賛してやまないような人間が確かに必ず少数ながらも湧いて出ることも確かだろうが、そういう人物がどういう類いの人物か、これももはや言うまでもない/多言を要しないことだ。
「一体全体どうなっているんだ、何がどうなってるんだ。で、オレタチにどうしろってんだ」
常に具体性に欠けた指示を出すリーダーを持ってしまった組織のメンバーというのは、まずそこから考え始めなければならない。
そもそも「世界の中心」などというものは、曖昧な上に、相対評価の最たるものであり、自負自尊、自己評価だけでは一切確定もしないし完結もしない。
まだしも「優勝」というものなら、ルールの中で明確に定められて間違いなくあるものなのだから、「優勝したい」という願望を口にすることはどんな弱小チームにも許されていることだが、「世界の中心になりたい」なる願望は、あらゆる知性をかなぐり捨てることで、初めて口にできることかも知れない、とりわけ現代にあっては。
その上で「輝く」というのだ。
「輝く」というのも、間違いなく比喩表現でしかないのだが、殆んど意味をなしていない。
なるほど、競技選手が優勝して表彰台のてっぺんに上がった姿は“輝かしい”。しかし、それは、「表彰」することを前提とした一定の厳密なルールの中で競い合った結果だからであり、世にそのような「競技世界」などというものはそうそうあるものではない。
そうそうあるものではないがゆえに、「競技世界」に似せた顕彰制度を設けている例は数多あるが、それらは主として個々人またはそれを準じるものを讃えて、ひいては共同体なり組織なりの活性化のために設けられているものであり、「輝く国」なる曖昧模糊とした自己満足の比喩表現とはまったく異なる次元でなされているものだ。

年頭にあたって、こんな子どもに諭すようなことを、いちいち記している自分が虚しくなってくるが、とにもかくにも、我が国の総理大臣が、そのような言葉で(限りなく好意的に言えば)国民を鼓舞しようというのだから、それに対する一国民の反応を痕跡と残すことにも多少の意味はあるだろうと思い、こうして記しているのである。

一国の首相の言葉というのは、「個人の見解を述べたまでだ」では済まないところがあるからこそ、多くの者が寄ってたかって「総理の言葉」に関与するのだが、いったい一国民にこのような反応を引き起こさせてしまうこの国の機構はいかなることになっているのか。
はなはだ心許ないと言わなければならない。


「そんなことを言っている口しか達者のものがない連中が絶対に優勝などすることなどありっこがないように、そんなことを言ってしまう総理大臣を有している国が絶対に“世界の中心”になることも“輝く”こともないない、あり得ない」

「恥はかき捨て、世は情け」(笑)とは、傍若無人な輩の言い訳に過ぎず、堅気ではないがゆえに「吐く」ことの可能だった「いきがり」の表現だろう。
かりにも一国の内閣総理大臣ともあろうものが、それと同等のレベルから同等の捨て台詞のようなものを吐いているようでは、むしろ、墜落の加速度はいやましに増すだけだろう。

〈もう別の道を模索すべきだ〉
〈もう別の道を模索すべきなんだ〉

私は、昨年の大晦日にあたる昨日、『晴耕雨読』というブログ系サイトのコメント欄に以下のようなコメントをした。
日本人として日本に生きることが恥ずかしくないように、以下をもって不特定多数(不特定少数?)の皆様への年頭のご挨拶にかえさせていただきたい。


(以下、転載。一部改)

強権と怯懦とは、矛と楯の関係であり、彼らは権力を振り回しながら振り回された権力にみずから怯え、自己矛盾を産出し、産出した自己矛盾に溺れながら解決不能という毒に麻痺し、周囲を凶暴な圧力の中に捲き込みながら破産と破滅へと向かう。
こういう悲惨にして滑稽な悪循環に私たちが捲き込まれなけれならない“義理”は一切ないのだが、人々の怠惰と脆弱さとが、反知性的な集団主義の洪水となって瞬く間に押し寄せ、私たちの足元を掬い、私たちを押し流してしまうかも知れない。
そんなときでありながらもなお、このような局面に私たちがあるということに気付いている人はまだごくわずかであり、貧困あるいは流離という不運に見舞われた人たちだけが、よく私たちにあるしゅの「知」を授けようとするだろう。
だから私たちは、彼らに導かれるようにして、「知的活動」の方へと強く赴かなければならない。
泡を喰う悲惨な滑稽さに不意を突かれて靴底の泥濘に足を滑らせないよう細心の注意をはらいながらも。

|

« フィギュア町田選手の突然の引退発表に驚く | トップページ | 文明の移動と人類の未来 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1182932/58441554

この記事へのトラックバック一覧です: コンプレックスの塊は、あるいはそうであるがゆえに、“政治”のW杯開催を夢見るのか?:

« フィギュア町田選手の突然の引退発表に驚く | トップページ | 文明の移動と人類の未来 »