学問・資格

2009年6月 7日 (日)

支配層の十八番《言語偽装》に乗っかる愚2

このようなシニフィアンとシニフィエの意図的なズラしによる《言語偽装》を、「詐称」と呼んでしまうのは容易い。
容易いが、それゆえに実質的には悪口以上の力は持たない。
まず、内的にノウハウやメソッドを解体して、流砂状のものにしてしまわない事には、自律的な改革など不可能だろう。
米国は、日本の統治形態を相当程度研究しているはずだ。
つまり、日本に住んでいるだけなら、無意識的に達成されてしまう「高度さ」が他者には脅威になり得る事があるのだ。
それは、日本文化の蓄積された高度性の恩恵ではあるのだが、それに対して日本人自身が無自覚過ぎるのは情けない。
米国は、日本語で「銀行」と表記されていたり「郵便局」と表記されているものが、いかに自国のそれと成立の基礎自体が異なるか気付いたのだろう。
「ベースボール」と「野球」でさえ余りにも違ったのである。
だから、米国はそこを衝いて来た。
それに対して、事大主義を払拭出来ないまま「開国派」と「攘夷派」に分かれて争うだけでは余りに芸がなさ過ぎる。
日本には過去の文化はあるが、現在の日本人はその遺産に頼って生きているだけの痴呆の群れに過ぎないと見られているのではないか。
そんな懸念を払拭し切れない。

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支配層の十八番《言語偽装》に乗っかる愚

情報工学的手法による多数支配(国民支配)という事に関して、日本の支配層においても独自の蓄積がなされている事は言うまでもないだろう。
ただ、特殊日本的な組織はいつも内閉的・偏執的であるために、そのノウハウやメソッドを“国際化”する事に関心を示さず、もっぱらその“高度性”を日本語を用いて日本国民に適用する事に専念しているようだ。
そのために、日本の各分野でしばしば見られる事だが、その国民支配のノウハウやメソッドも、「学」として開放(解体)されるに至らず、「因襲」あるいは「一子相伝的な秘術」、よく言ってせいぜい「道」の段階に留まる。
このような日本独特の現象は、今後、日本文化の卓越性分野を世界化していく上で解消すべきものだが、閉鎖的支配層の卑劣な蓄積知などは即座に解体されて然るべきだろう。
その典型的な情報工学的な国民支配のノウハウに《言語偽装》がある事はもっと人口にカイシャされるべきだ。
ある「国語」における「シニフィアン」と「シニフィエ」の一致を特定の対象について意識的にズラす事によって、認識の自動的なハグラカサレが生成するよう仕向ける事…これが《言語偽装》の要諦であり、「国営国民金融事業」を「郵政」「ゆうちょ」「かんぽ」などと呼称し続けるのもその典型的手法と言える。

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2009年4月 3日 (金)

「価値混乱」の時代6

(前項より続く)
さて、「経済学」は、このような現象に言及しようとしない。
「経済学」にとって、人間とは全て「合理的功利主義者」でなければ困るのであり、それ以外の人間は捨象しなければやっていけない。
そうしないと、計算が出来ないからだ(笑)。
「(古典/主流)経済学」にあっては、モノの価格は市場メカニズムによって決定されるものらしいが、“先端の”経済学になればなるほど、最初に言及した「絵画」の例ではないが「専門家が寄り集まって想定した価格」に複雑な計算式によって予測・誘導する傾向が顕著となっている。
その予測・誘導が、まさに「神」のごとき客観的見地からなされているのならまだしも、「共同体」を「防衛」しようという「合理的主体」にはあるまじき動機によってなされていたとあっては、「信用」が一気に収縮するのもむべなるかなだ。
もし、今後とも「経済学」が学問としての「信用」を維持して行きたいのなら、現在までの「学」としての限界点をつまびらかにする事と、グローバルな規模において、「明日食うものがない」というレベルの「貧困」をいかに撲滅し得るか考察する事の中にしかないのではないか。
現在、経済学屋の宣う戯言の殆どが、うんざりするに十分なだけの「負の価値」を内在させている。

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2009年3月13日 (金)

ステロタイプ1大前ケースと「説教の資格」

小学館SAPIO3/25号に大前研一の文章が掲載されている。
所謂ビジネスの最前線で活躍?しているだけの事はあるアイデアは確かに散見されるのだが、相変わらずの「煽り説教」で締めくくられているのはいただけない。
曰く「頂を高くすれば、おのずと裾野は広がり、すべての人に恩恵がもたらされる」「そろそろ日本人は考え方を改めるべきだ。自己投資・自助努力する人間の集合体を作れば国は強くなる」「国民が前向きにならなければ、日本が最強国家になることはできない」

一面の真実を「普遍的真理」であるかのように執拗に繰り返す論法には、いい加減「飽きた(笑)」と言わなければならないが、
むしろ、ここで問題にしたいのは『「説教」「説法」の資格』という事だ。
困難に直面している時、我々はいったいどのような立場の人に『「説教」の資格』を認めるだろうか?
利害関係者か?利害超越者か?
一般的に後者である事は論を待たないだろう。
現代は後者を偽装する者こそ最もいかがわしいという大変な時代になってしまったのではあるが、だからこそ我々は「宗」ではなく「公」の領域を設定したのではなかったか。
大前の想定する「私・個人」が、今、崩壊過程にある事を彼の如き輩はいつになったら気付く事か。

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