文化・芸術

2009年7月 4日 (土)

《価値転倒》と《価値失調》

何をもって「精神の病」(価値失調)とするか?
これは、19世紀乃至は20世紀以降の思想上の巨大なテーマであり続けて来たし今もそれは変わらないだろう。
だが、精神医が「施術」せざるを得ない心身の苦痛を訴える患者が存在する現実も明らかにある。
ところで、仏教とはヒンズーの神々を"当てにしない"哲学であり実践倫理だった。
当然伝説の領域だろうが、釈迦が生まれた途端に『天上天下唯我独尊』と口にしたというのは、この辺の事情を伝えている事になるだろう。
すなわち、ヒンズーの神々を否定しないまでも当てにしないというマニフェスト。
バラモンあるいはウパニシャッドの体系から抜け出す(価値を転倒させる)にあたって、釈迦が想像を絶する精神的苦痛を覚えたであろう事は想像に難くない。
さて、現在、古来より文化を生み出す原資として機能してきたカネが、今や文化を殺すモノとして機能し始めている事に注意しよう。
極端な個人主義と功利的合理主義の結託により、カネはカネを生み出すものでしかなくなりつつある。なぜか市場原理主義者達は諦めていない。
仏教は、神々への依頼を断ち切る事から思考を始めている。一方、西欧哲学は、長い時間をかけて神の不在証明をするに至った。

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スタジオボイスの休刊

'80年代、日本はスノッブだった。
スノッブ?そう、スノッブ。
でも、それはTシャツを着たみすぼらしくて野蛮な合理主義より、いくらかはマシだった。
スタジオボイスが、休刊を決めた。
そう言えば、スタジオボイスの事を僕は忘れていた(笑)
アメリカから流れて来るくだらないドブ川の氾濫をせき止めようと大わらわの時に、スタジオボイスを手に取る余裕はなくなる…。
Tシャツを着たみすぼらしい金満合理主義者のなし得る事と言えば、札束で遊園地でも作るぐらいが関の山。
そんな事は、日本人の多くが知っていた。
知っていたにも関わらず、野蛮なドブ川の氾濫に具体的な対処を迫られ、そして、疲弊して行った。それが現実。
思い出せば、スタジオボイスが体現していたのは、「紙のマチエール」だ。
マチエールは、人間の意識に触覚を与える。
今、私たちを取り囲んでいるガラスのマチエール。
それは、全ての私たちをピーピングトムに仕立て上げる仕掛けとも言える。
私たちは“覗き見”を強いられ、身近なものの肌触りを忘れる。
だが、このような事はそれほど長くは続かないだろう。
やむを得ざる手段として以外、賢明で明晰な者から順々にそれを重用しなくなるだろうから。

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死して尚《GAKI》がMJを喰い尽くす

マイケルジャクソンがあたかも何かの被害者ででもあるかのように死んでいった……なぜ(私には)、そのように見えるのか。
"超セレブ"でありながら、米国に顕著な《セレブリティ文化》に遂に馴染もうとしなかった者の悲哀……なぜ(私には)、そのように見えるのか。
一方、今、日本においても"人気者"に群がりおもねり、そのおこぼれを人目もはばからず貪ろうとする《餓鬼道構造》が、恥も外聞もなく露出し続けているように見える。
メディアの中に存在している限りにおいて、あたかも英雄のように見える「彼」。
「彼」を誰が求めているのか。「彼」は誰によって演出されているのか。「彼」にとって「彼」は満足できるものなのか。「彼」の満足出来ない「彼」を手放しで熱狂し陶酔する人々を見て、「彼」は何を思い感じるだろうか。
ちなみに仏教哲学においては、《餓鬼道》という実態があるわけでは勿論なく、六道は全て本来的には心の様相であると説く。
「人」を闇雲に"話題"にする人々は、「作品」を語ろうとしない、…それは、なぜか?
「自民党」という「恥部」を早く克服しない事には、私たちはアメリカのようになってしまう。
MJがその容姿改造と同程度の冒険心を自らの「作品」に発していたなら…MJはMJにならなかったろうに。

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2009年6月14日 (日)

内田×高橋(SIGHT夏号)

哲学者や小説家と言えば、多分、言語の専門家のはずだ。
言語に関するあらゆる知識を修得しておくべきとまではさすがに言えないが、少なくとも言語の専門家が、「日本語は論理表現に適していない」などとあやふやな根拠で言明して開き直っている姿はおよそ知的誠実さに欠けている。
ロックが最も忌み嫌うのは、この手の不誠実さだ。
技術も知識も不足しているのに、それらを十分に所有している者を圧倒し凌駕するような表出が奇跡的に実現してしまうような事態こそがロック的なるものと言えるだろう。
いや、ここでロック論を展開している暇はない。
問題なのは、この二人が、小泉以降の自民党が「功利的合理論理」を全面的に受け入れそれを政策に反映し続けて来ている事実を不問に付している事だ。
自民党がヌエのような政党である事は今更言うまでもないのだが、そのヌエ性さえも、「功利的合理性」に蚕食されている事は、この度の鳩山総務相更迭でも明らかではないか。
日本の哲学者や小説家が「日本語はロジカルに出来ていない」と議論を始める前から敗北宣言している様はまさに異常事態なのであって、それが分からない渋谷にも落胆せざるを得ない。
敗北主義の団塊野郎は沈黙の中で泣き濡れていろ。

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内田樹×高橋源一郎(SIGHT夏号)

「内田樹×高橋源一郎」の対談はとても容認し難いものなので、なぜ容認出来ないかを明らかにしておこうと思う。
まず、日本語が表音文字と表意文字の組み合わせによって出来ている事について。
これは、確かにユニークである事は間違いないだろうが、だから「日本語ではロジカルに語る事は出来ない」という理由には一切ならない。
ロジックに全てを語りたいのならば、この者たちは全てを「数と記号」によって語れば良いのであって、実際に一部の経済学者たちは「全てはロジックに説明し得る」として、容易には論駁出来そうもない「式」を"発明"し続けている。
逆に言えば、隙のない論理言語とは「数式として表現された数値記号」のみなのであって、それ以外の世界の日常言語に特別にロジカルな言語、特別にエモーショナルな言語などあり得ないと見るべきだ。
また、"完璧な論理"を表現しているかに見える「数式」もそれが「言語」である限り、限界を有しているのは言うまでもない。数字の1を論理的に用いるためには、予め1の意味する所を定義付けておかなければならない。
「メロン1+リンゴ1」は単に2なのか、どこまでも「メロン1とリンゴ1」でしかないのか、「果物2」なのか「食物2」なのか、論理を機能させるためにはそれなりの手続きが必要になる。

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2009年6月 7日 (日)

日経新聞6/7

「日本経済新聞社」などという“文化の産廃処理場”のような“場”に棲息しているからこそ、“痛み”として痛切に感じられる事があるというのは確かだろう。
読書欄の『活字の海で』と題する記事で、雑誌「大航海」と「国文学」の休刊を伝えている。
中で「大航海」の編集主幹である三浦雅士の言葉が紹介されている。

(以下、紙面から引用)
「人文関係の雑誌で『売れないからやめる』という考え方は本来、ありえない」
「経済が文化の下部構造という位置づけを超えて全面化し、文化は顧みられなくなった。この地殻変動の衝撃はあまりにも大きく、あまりにも深刻」
(以上、引用終わり)

“文化の産廃処理場”のような「日本経済新聞」に掲載されるに相応しい言葉と言えるだろう。
他の一般紙以上に、“痛み”として感じられる記者が内部に棲息しているのなら、それだけが若干の救いと言うべきかも知れない。所詮、逆説的ではあるが。
問題は結局、根底的な思想の問題に帰するのだろう。
それにしても、どうだろう。「権力者や金持ち」が「文化」を生み出せない“場”ほど、醜悪な“場”はなく、それは人類の歴史上、初めて出現した“場”である事は間違いないのではないか。
日米共同事業の成果だ。

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2009年5月 6日 (水)

偶然を制御しようとし、かえって隘路にはまる人類の滑稽と悲惨と傲慢と、あるいは光明としてのウィルス?

勿論、私は人命を救助する人々に敬意を抱いている。
病に倒れる人や窮乏する人を具体的に救済しようと動く方々を揶揄するような事などあってはなるまい。
しかし、人類の間に広がる“近代的な迷妄”とも言うべき「支配思想」は、十分な懐疑と批判に曝されるべきだ。
「社会」や「市場」に適用され、今、「自然」にも適用されようとする「コントロール(管理・制御)の思想」。
「社会」を管理すると豪語した「社会主義・計画経済」の崩壊の記憶がまだ鮮明な内に、「リスク」を「コントロール」すると言い「リスク」を「ヘッジ」すると喧伝しながら崩壊した「進化した?自由市場」も、今まだ、私たちの目の前にその惨状をさらしている。
にも関わらず、私たちは「偶然性は制御されなければならない」とする「近代の強迫的迷妄」の中に陥ったまま、目を覚ます事はかなわないようだ。
災厄は出来る事なら小規模に留まるに越した事はない。だが、「人類が偶然を制御出来るかのような迷信」を振り撒く事は、もう止めた方が良くはないか。
自然はもとより市場ですらも偶然性が全体に及ぼす影響の方が、人為的な制御思想よりも勝っていた事を「コントロール主義者?」達は認めるべきだろう。
認めた所から、新たな生のスタイルの模索が始まるのではないのか。

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2009年5月 4日 (月)

『言語・ウィルス・情報』

「言語はウィルスだ」と言ったのは、米国の作家ウィリアム・S・バロウズだった。
逆に「ウィルスとは情報機械だ」とも言えるだろう。
「言語情報」も「ウィルスの遺伝子情報」も、未知の新種について人間は殆ど抵抗力を有しておらず、あっという間に世界に伝播していく。
人間は、「未知の言語情報の発見」については原則として賞賛によって迎える態勢を取り、「未知の遺伝子情報の発生」については恐怖とともに防衛機構を張り巡らせようとする。
勿論、前者は人間が関与し人間が自ら発見または演繹したものだが、「未知の言語情報の出現」によって「工学的な現実」も新展開していくのであり、果たして「未知の情報の伝播」が人類にもたらす災厄という観点から眺望した場合、「未知の遺伝子情報」ばかりが脅威であるのかどうか。
かつて、日本においては栗本慎一郎らが唱道した「経済人類学」などは、このような視点を持っていたはずだが、最近はとんと流行らないのか、学会的に不活発なのか、単に私が無知なだけなのか。
「パンデミック」とは確かに恐ろしい事態には違いない。違いないが、人類が「言語」を放棄する事が不可能であるように、ウィルスを撲滅する事もまた不可能だろう。
では、どうするのか?少なくとも人類はもう少し冷静になるべきでは

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2009年5月 3日 (日)

セレブリティ文化(笑)

『日経新聞』が、厚顔無恥にも5/2付紙面で、マイクロファイナンスの普及などに貢献しノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスのインタビューを大々的に掲載している。
無論、メディアとして"画期的なモノ・コト・ヒト"を多数に向けて伝達しようとする事は、単純に良いことには違いない。
違いないが、この新聞のこれまでの立ち位置を考えた時に、マイクロファイナンスの動きなど明らかに冷笑の範疇にあったのは間違いない。
ところが、そんな冷笑の対象がノーベル賞受賞などにより無視できぬ"権威となり"、一方で自らの拠って立つ基盤が怪しくなった途端、媚び売り、へつらい、おもねり視線で突然そのような対象に寄り添って行くのが卑しき者どもの行動パターンに他ならない。
さらにこの者どもは"画期的なヒト"をスターダムに押し上げセレブリティとして祭り上げ、その事によって逆に貶める機会を窺うという手法を取る。
だから私たちが注意すべきは、このような者どもによって一時的に"手放しの賞賛"を受ける人を過剰に聖人君子視しないようにする事だろう。
この世には神も聖人君子も存在しないのだが、にも関わらず画期的な出来事は起こり得る。ある時空においてカオスの渦の中心点に位置してしまうような存在は存在し得る。
ただ冷静に渦の特性を見て行こう。

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2009年4月29日 (水)

「文学的想像力(妄想力)」は、どこに向かうべきか。

偶然性への畏怖/拒絶の思想と、偶然性への畏敬/憧憬の思想について。
あるいは、カントの生涯とは退屈でつまらない人生だったのか、
または、当時の誰からも殆ど相手にされぬまま死んだゴッホは、日本の浮世絵などに遭遇しない方が幸福だったのか、
「友」はなぜ「遠方より来る」のか、
そして「一期一会」、あるいは「色即是空、空即是色」などといった日本人にとって親しいながらも語られようとしない実践倫理/概念の意味は、しかし、現代の私たちの生活様式の中においても、どのように埋め込まれているのか。
私たちは、一般にフッサールなど難し過ぎてほとんど理解もしていないし理解しようともしていないのに(或いはそれゆえに)、私たちがただの日常生活においてさえ「ヨーロッパ諸学の危機」に苦しんでいるのはなぜか。
米国人にとって、ジャクソン・ポロックやジョン・ケージ、果てはウィリアム・バロウズとは何だったのか。今でもご自慢なのか、忘れ去ってしまいたい疾病のようなものなのか。
いったい「経済学」は、人間についての誤った認識のまま疑似流体力学のようなものに向かう事で良いのか。
「散逸構造」と「偶然」の入力について。
どれもこれも、私の手に負いかねるものであるが、今後の「経済」ひいては「社会システム」を考えるにあた

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