日記・コラム・つぶやき

2009年5月 3日 (日)

"セレブ"である事から自由になろうとする人たち

私は、一旦"セレブ"(笑)となりながら、セレブである事から自由になろうと動く/もがく人を基本的に信頼し信用する。
これまた5/2付の『日経新聞』の最終面の記事から触発されたものであるのが少々癪に触るが(笑)、そのインタビュー記事によると坂本龍一がソロアルバムを出したとの事。
まだ、作品そのものを聴いてはいないので、本質的な評価は出来ないものの、坂本の言葉からは、「セレブである事から自由になろうとする苦闘」を感じ取る事が出来、好感が持てる。
"セレブ"たる事は、時代の文脈(文法)を自ら創り出す事であり、それは確かに賞賛に値し得るが、また同時に、"セレブ"たる事は、時代に漂っていた文脈(文法)を集約的に(啓示的に)受け入れた事をも意味する。
ゴッホは、そうした文脈から一気にエクソダスしたがゆえに同時代の誰からも殆ど理解されなかった。
しかし、多くのゴッホたり得ない"セレブ"については、"セレブ"になって以降を見ない事には、時代を超越する全体的な評価には行き着かないのではないか。
勿論、作品と作家とは別物だ。別物ではあるのだが、しかし同時代を生きる者としては、作家の作品への倫理にまで踏み込んでみたい。

これは、小沢一郎への期待感の表明でもある。

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2009年4月27日 (月)

このブログを続けるにあたって

私の現在の個人的なテーマは、劣悪な我が国の政治環境の打破についてもさる事ながら、信仰の域にまで高まっているかのような、あるいは我々の無意識をも規定しようとしているかのような、《数値至上主義》の限界、欺瞞、もしくは拙劣を克服する事だ。
もっとも「打破」だの「克服」だの大言壮語したところで、私のような者にそんな大層な事が出来るはずもないのは重々承知しているのだが、それでも素人の怖いもの知らずによって、あるいはアクションペインティングのように自らの直観的想念の偶発的なアンサンブルまたはコンポジションによって、読む人の思考の契機となる、もしくは思考を喚起する起爆剤となるようなものが書き記せれば良いと願っている。
《数値至上主義》による《偶然性》への忌避と畏怖とは、私たちの生から豊潤かつ芳醇な多くの快楽を奪い去ってはいないか。
《偶然性》によってもたらされる可能性の広がりを楽しもうともせず、《偶然性》を廃棄する事によって予測可能な未来を引き寄せようとする所作と習慣は、生の貧困な退屈を辺り一面に蔓延させてはいないか。
本質的な投機を求めるのなら、"ちゃちな見返りを求める投機"など嘲笑って然るべきだ。

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2009年4月25日 (土)

植草一秀氏への返礼

先日、当ブログにおいて「週刊新潮」のグロテスクな記事に言及したところ、植草一秀氏が氏のブログにおいて礼の言葉を記しておられ、驚くとともに恐縮している。
日本の社会状況に関して何らかの危機感を表明しなければと思い、家にいる事も少ないため携帯ブログに飛びついた訳なのだが、片手間ながらもいざモノを書き始めてみるとこれがやはり難しく、生来の怠け性も手伝い持続する事の困難さも覚える。
私は若かりし頃は文学畑の人間であったため、コアの部分では「文学的妄想」を擁護する側にいる。
文学、とりわけ日本文学が、いわゆるアカデミックな拘束力の《外部・外延部》に立ち続けて来ている事に意義を見いだしているからであり、小林秀雄、吉本隆明ら文芸批評の領域に最も豊潤な可能性を見ている。
文学が、「計量化からこぼれ落ちるもの」「制度から はみ出すもの(排斥されるもの)」に対する「文学的な眼差し」をおくる事が出来なくなるのであれば、文芸出版社などというものは、いっそのこと消失してしまった方がすっきりするというものだ。
また、そういう立場からの危機意識の表明を今後とも継続して行きたいと思っている。
聖と俗の往還する回路を開く/開き続ける事こそ、文学の役割だと考えるからだ。

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2009年4月 3日 (金)

「価値混乱」の時代5

(前項より)
すなわち、クルマは所詮クルマに過ぎず、家は家に過ぎない。一方のクルマは時速30キロしか出ないという訳でもない。
したがって、これは「実質的なインフレ現象」と言うしかあるまい。5千万で買える家が、5億出さなければ買えなくなったのと少しも変わらないのだから。
逆説的だが“階級”が存在しない機会均等の国・地域(空間)ほど、この「実質的な点的インフレーション」は極端になるのであり、その事が小金持ちが大金持ちになろうとする際の逆説的インセンティブにすらなっている。
こうした欠乏感、渇望感から脱却する回路が閉ざされた〈意図的経済システム〉に巻き込まれ、我を失う事ほど、端的に不幸であり愚かな事があるだろうか。
皮肉な事に、現代にあっては、かつて王侯貴族など特殊な階級の人々が独占していた最終的最高級消費財としての「ソフト」の“価格暴落”には著しいものがある。
かつてならマリーアントワネットのような人達が独占していたモーツァルトの楽曲は、間接的な形ではあるが、今ではほぼ誰もが安価に体験出来るようになっているのだ。
金融市場参加者らが奏でる狂騒曲が、その飛び交っている貨幣量に比して、息つく暇もないヤケクソ気味のSOSにしか聞こえないのは故のない事ではなかろう。
(この項つづく)

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「価値混乱」の時代4

(前項より続く)
さて、インフレーション現象では、最近の国際協調の進展により「局所的インフレーション」が観察されるようになっているとの事だ。
具体的には、国連の部隊などが派遣された地域で、需要と供給のアンバランスが発生し「局所的インフレーション」が現象するのだという。
ところで、そのグローバリズムの進展により、膨張した世界市場で顕在化したのは、実は、局所的ならぬ《点的インフレーション》とその収縮問題ではなかろうか。
具体的に見てみよう。
“守銭奴”という侮蔑的な呼称がいみじくも表現するように、「貨幣の大量獲得者」には、強力な心理的圧力が内発的にも社会的にもかかる事になる。
「金持ちなんだから金持ちらしくしたい、すべし」という圧力がそれで、彼(=金持ち)は、庶民が100万円で乗るクルマに1000万円かけ、庶民が5千万で建てる住宅を5億円で建てる事になる。
そうしなければならない合理的理由はどこにも存在しないにも関わらず、内発的にも社会的にも彼はそうせざるを得ない。
これは、何を意味するか。
人間社会においては、大量の貨幣獲得に成功しても「点的インフレーション」がほぼ確実に引き起こされるので、「豊かさの実感」は貨幣獲得量の乗数に比例しないという仮説が導かれる事になる。
(この項つづく)

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「価値混乱」の時代3

(前項より続く)
インフレーションと呼ばれる現象がある。
持続的に物価が上昇する現象であり、「モノ」が貨幣で交換されている点において「貨幣価値」の下落をも意味する。
今まで100円で買えたハンバーガーが1000円を出さないと買えなくなれば、今まで1000円札一枚がハンバーガー10個分の価値があったのに、インフレによって1個分の価値しかなくなった事を意味する。
こんな恐ろしい事は起きない方が良いに決まっているが、〈連続性と均質性が保たれた貨幣流通空間〉において、インフレが生じる事があるという見解は正しいのだろうし、これまでも“各所”(各空間)で観察されて来た。
こんな事はデフレーション同様、起こらないようにしてもらいたいものだと、普通は誰しもが願う。
その一方で、私達はインフレ・デフレに関わらず、個人的にはより多くの稼ぎを得たいと常に願い、現実に行動し努力してもいる。
少なくとも貨幣はないよりたくさんあった方が好ましいと大半の者が判断し、中には文字通り大量の貨幣を手中に収める事に成功する者もいる。
努力しても人並み程度の貨幣しか入手出来ない者は“庶民”などと呼ばれ、貨幣大量獲得者は“成功者”“資産家”“金満家”“守銭奴(笑)”などと呼ばれる事になる。
(この項つづく)

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「価値混乱」の時代2

(前項より続く)
この謎の資産家?が、まんまと絵画の価格を5倍にして売り抜けたら、彼は優秀なのか。
また、あらゆる"理論"を駆使し、絵画の価格を5倍にする事に成功した専門家らは優秀なのか。
確かに一面では"優秀"なのかも知れない。だが、それによって彼らは果たしてどのような「価値」を生み出したというのか。
“経済学”的な視点からは、常識的に多くの“価値”を生み出している事にはなるのだろう。
しかし、私たちがろくな余剰資産もなしに生きている上で、このようなエピソードに納得し得ないものを感じるとすれば、それは、一般に「経済学」と呼ばれているものに始源的に埋め込まれている何らかの「錯誤」或いは「意図」もしくは「盲点」などを疑ってかかった方が良いという事になるだろう。
この点を考えるにあたって、私たち日本人は特にそうなのだが、「経済学」等の“近代”の学によって採用されている〈連続的で均質な空間〉と〈現実〉をイコールと考える発想について十分に留意すべきだろうと思われる。
(但し、マルクスが言ったような固定的な階級社会といった類のある意味便利なものは既にない、或いはそういう思考に囚われるとそれはそれで思考の罠にはまるとも言える。)
(この項つづく)

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2009年4月 2日 (木)

「価値混乱」の時代

残念ながらと言うべきか、あるいは哀しむべき事にと言うべきか、いずれにせよ、私たちは今、大変な「価値混乱」の時代の真っ只中を生きざるを得なくなっている。
「カネの価値」「モノの価値」「ヒトの価値」「トキの価値」
ありとあらゆる「価値」の尺度が混乱と混沌のるつぼの中に投げ込まれており、「適正な価値の在り方」と言うべきものが見えなくなっている。
「価値」が分からないという事は、すなわち、「一個の人間として満足の行く生を送れない」事を意味する。
「価格」は分かっても「価値」が分からないのでは、本当は生きている意味にすら乏しい状態と言っても過言ではない。
にも関わらず私達は生きている。なぜ?
ある一幅の絵画について、多くの専門家があらゆる合議を重ね、最も適正な価格を設定したと仮定する。
それは、今まで他のどの絵画も達成した事のない最高価格だった。
あなたには、それが買える。
だが、それはあなたにとって買う「価値」のあるモノなのか?
また、あなたはそれを買う「価値」のあるヒトなのか?
ある者はこう言うかも知れない。
「よし絵を買おう。そして君ら専門家に同じ額の投資をする。だから、君ら専門家はこの絵の価格が5倍になるよう価値を吊り上げてみせろ」

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2009年3月11日 (水)

はじめまして

不思議の国日本に生まれてしまって、早ウン十年。

「なぜ、こうなのだろう?」と思うことばかり。

「どうにかなりませんか?」
と、目の前の人に言ったところで、どうにかなるわけでもなし。

となると、やはり、ささやかながらも、公共の空間に向けて発信?発声?するしかありませんよね。

面白いものになるかどうか分かりませんが、
タイトル通り、カフェテリア感覚で、お立ち寄りいただければ、大変うれしく思います。

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