書籍・雑誌

2010年6月20日 (日)

文藝評論家=山崎行太郎の告発

文藝評論家=山崎行太郎が、自身のブログにおいて、注目すべき告発を行っている。
岩手県の地方新聞、『岩手日報』が、小沢一郎に実質的な引退勧告をするにあたって、とてつもないデマを飛ばしていた事が明らかにされているのである。
かりにも小沢一郎は、日本を代表する政治家であり、しかも岩手県選出の代議士である。
であるなら、そのような人物に引退勧告を行うにあたっては、読んだ者をして唸らしめるだけの説得力と事実関係に対する細心の注意が払われていなければなるまい。
もちろん、大物政治家についてだろうが、一介の庶民についてだろうが、報道機関が事実関係について細心の注意を払うべきなのは当然の事なのだが、社会的影響力という面について言えば、より一層の注意が払われるべきだというのは常識の範疇だろう。ところが、昨今のマスメディア(新聞テレビ)にかかると、こと小沢一郎に関する事なら、むしろデマでも何でも飛ばしまくって構わないという傾向が歴然とするのは何故なのか。どれだけ、小沢一郎が憎いんだ、怖いんだ。
あまりにも異常きわまりなく、また、あまりにも情けない。
今回、山崎行太郎の告発がなければ、ほとんどの者がその悪質性には気付きはしなかったことだろう。そして、「小沢の地元紙すらも小沢を見限った」という《デマ的な尾ひれ》のみが流布され、拡大反復されていくのである。
(もちろん、山崎のブログを読む者の人数など、恐らく知れているので、現実問題としては、デマはそうと気付かれないまま、撒き散らされていくのであるが)
また、このような形の批判をすると、いや、内容に多少の瑕疵はあったかも知れないが、「地元紙ですら小沢を見限った」のは事実だろうと居丈高に開き直る向きもあるかも知れない。
しかし、問題が、そんなところにない事は歴然としている。
問題なのは、特定の政治目的を実現させるために、事実と嘘を適当にブレンドして、人々一般の認識を操作しようとする情報操作意志/意図がそこにあるか否かという事なのである。
こういう事というものは、法的には犯罪として成立させるわけには行かない類のものなのだろうが、しかし、意図的にやっているのだとしたら、やはり犯罪と同様の重みを持っているのだし、無知と悪意の混合だったにしても、社会的に到底許されて良いものではあるまい。なにしろ、この者達の最終目的は、「ついに地元紙ですら小沢を見限った」というワンフレーズを撒き散らす事に他ならず、それを言うための理屈に関しては、国民を煙に巻くに足る怪しげな権威や知識さえまぶされていれば、本質的にはどうだっていいのだから。裏にどんな連携があるのか知らないが、『産経新聞』は『岩手日報』のコラムを自らの無知をさらけ出しながら嬉々として取り上げているようだ。(構図としては、『ワシントン・ポスト』のルーピーコラムを大喜びで掲げてみせたのと何ら変わりない)
しかし、この問題は、素人ブロガーが、マスメディアには見られない論調の文章に触れて、共感の輪を広げているのとは訳が違うのだ。
私も、このブログのいたるところで、自分の無知をさらけ出しているのだろうが、しかし、《デマ》に収斂させるための、《デマ》の流布を最終目的とする意図をもって文章を書いているつもりは一切ない。
もはや、我が国の新聞テレビの品質劣化は、耐震偽装やら食品表示偽装やらをはるかに上回るとてつもない社会的な《罪》をおかしているとみなすしかない。
この《罪》は、明文法の定めには触れないかも知れない。
しかし、明らかに近代社会を成り立たせているものの根幹に抵触しているのであり、このような事例がいつまでも不問にふされたままで良いはずがない。

他マスメディアは、これを、どう扱うのだろう。
官房機密費問題と同じで、「我々が知らない問題については、存在していないとみなす」という姿勢を貫くのだろうか。
多分、そうなんだろう。

深刻なのは、問題が小沢問題に限った話ではないという事なのだ。
私たちが相手にしても仕方がないと放っておく、ありとあらゆる領域について、人の口に上りやすいワンフレーズ的な《デマ》から逆算された、もっともらしい《捏造》が日々飽くことなく流布されている事こそが、深刻なのであり危機的なのである。
「消費税問題」にしろそうだろう。「ユーロ問題」にしても、ドイツ(のメルケル首相)を悪者にしたくてたまらない者たちが、「いかにも」という記事を書きなぐっている。
ソフトパワーだかスマートパワーだか知らないが、各々の知がどうしようもなく専門化せざるを得ない状況及び情報インフラの非対称性をご都合主義的に悪利用して、《デマ》に等しい特定の政治目的を持つ情報をこれみよがしに頒布する行為については、基本的に許しがたい行為なのであり、その許しがたさを私たちは、共有する必要があるのだ。

(もし、どうしても、アメリカの“正義”の前にひれ伏す事こそが、我々日本人の採るべき道なのだと主張したいのなら、現在のアメリカの“正義”とは、どのようなものなのか、誰にでも分かるように、日々開陳し更新してみせてくれ。)

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2009年7月 7日 (火)

『東洋のこころ』中村元著

私のブログは、まさにマスチンドン屋並みの自分と自分周辺に都合の良さそうな事を出任せに近い形で書きなぐっているに過ぎないものだが、それでもマスチンドン屋レベルの「餓鬼畜生道」には堕ちまいとする最低限の"志"は保持したいと思っている。
さて、先日、中村元の名前を記してみて、「ああ、そうか、このブログをたまたま目にしてしまった方のために何かお役に立つことがあるとすれば、中村元の一般向けの良書を紹介するのが手っ取り早い仕草ではないか」と思い立つにいたり(笑)、早速紹介させていただく。
『東洋人のこころ』(講談社学術文庫)
題名がイマイチなのだが、本書の中で紹介されているシュヴァイツァーの言葉を引けば、中村元がどのような意図によってこの書を著したかが、ご理解いただけると思う。

『東洋の論理的宗教に比較すれば、イエスの福音は非論理的である』(同書P188「第九章合理主義の哲学」より)

西欧近代が、なぜ「東洋の神秘」という広告宣伝を浸透させてきたか。
それを考える上での端緒となるべきものが、この本には記されていると言えるだろう。

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2009年6月29日 (月)

週刊現代7/11号より

日本のメディア状況に少しでも“知的関心”があるのなら、今更もの珍しい内容ではなさそうなものの、実証的な書として、その中身に期待したい本が、明日、講談社より発売されるそうだ。
題して『日本国の正体』(長谷川幸洋著)

「自民党内改革派」とそれ以外という分け方に、ある種のフィルターを感じざるを得ないが、それでも、「日本国の戦後統治の形(構造)」が完全に行き詰まったのは確かだろうし、そのような構造の一端が、当事者・関係者・関与者らによって白日の下にさらけ出されるなら、それは良しとされるべきだろう。

チンドン業務とポン引き業務を『それが仕事』と思えるような“バカ”が、「エリート」たり得る訳はないと思うのだが(笑)、そこはご愛嬌という所だろうか。
自民党が終焉したなら、現行メディア構造についても目に見える形で変わらなければ、多くの国民は納得しないと思うのだが、どのような形に変えるべきか素案を練っているメディア学者など、この国の学界等には存在するのだろうか?
「知性」が健全に機能(流通)し得る土俵が、今この国にはあるのか?
結局「党の選挙の顔」どころではなく
「国の与党の顔」
を少なくとも変えて、国民自らが変わって行くしかないのだろう。

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2009年6月13日 (土)

SIGHT夏号

渋谷陽一は、「ロックな総合誌を作りたい」(後記)としてSIGHTを発行しているとの事だが、残念ながらメチャクチャ失敗している(笑)
特に「高橋源一郎×内田樹」の対談にその失敗振りが如実に示されている。
そもそも高橋が大学教授という時点で「ロックは既に死んでいる」訳だが、これは勿論SIGHTの責任ではない(笑)
責任ではないが、こんな団塊?野郎どもに好き勝手喋らせてお茶を濁している時点で「SIGHTはロックを殺している」(笑)
この二人の対談を仮にニーチェが読んだら(笑)どう思うか。
「(日本国において)仏は既に死んでいる!」と宣告するだろう(笑)
内田とかいう自称哲学者は「日本語は本質的にコロキアルなんで、ロジカルになりようがない」などともっともらしい事を言っているが、そもそも見方によってコロキアルではない民族語などあるのか。
「英語は英語、フランスはフランス語」だって?
欧州各民族語だって元はといえば全部ギリシア文字とラテン語のコロキアル言語じゃないのか?(笑)
ゲルマン人のローマ(帝国)コンプレックスはある意味、病とさえ言えるものだろうが、ゲルマン人なら、こいつらみたいな弱音は決して吐かないだろう、良し悪しは別にして(笑)
とにかく、こいつらの「訳知り顔文体」は全然ロックじゃない。

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2009年6月 8日 (月)

書籍「アメリカの日本改造計画」

イースト・プレスより2006年12月25日に発売されたこの本は、まだAmazonなどで取り寄せ可能のようだ。
「国営国民金融事業」(郵政)民営化プロセス見直し上の天王山が迫りつつある今、このような本を改めて紐解いてみるのは有益だろうと思う。
この本は、2年半ほど前の出版物である事からも明らかなように、米国の金融崩壊がこれほど劇的になる事も、また、オバマ政権が誕生に至る事も予想だにされていなかった時点で執筆されたものだ。
だが、現時点で基本的な日米構造には変化が訪れてはおらず、中川昭一や小沢一郎の追い落とし事件や、大手利権マスメディアの大部分がこぞって西川社長擁護に走っている事を鑑みても、未だに米国及び国際金融資本が、日本国民の金融資産をつけ狙っているのは明らかだと思われる。
悩ましいのは、本来ならば日本国民の公僕たる日本政府官僚達は、国益を守る為に体を張るべき存在なのだが、内実を見れば、彼ら官僚も日本の一般国民がコツコツと積み立てて来た国民の金融資産を「財政投融資」等の形で便利な財布としていいように使って来たのである。
私たちは、国際的にも国内的にも、支配者層のこのような「傲慢」が機能出来ないようなシステム作りに向けて知恵を出し合うべきだろう。

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2009年4月26日 (日)

本屋における"出会い"と"選択"

「ネット検索」流行りの昨今だが、「書籍検索」における「効率性」と「剰余価値の獲得」においては、経験上ネット検索よりも本屋検索の方が圧倒的に優れている。
本屋という所には「情報の適度な乱雑さと総覧性」が備わっており、それが逆にお目当ての本以外の本との「偶然の出会い」を演出してくれる。
こうした「偶然性によってもたらされる出会い」の方が、自分が今持つ狭く貧しい認識による「キーワード検索による抽出」などよりも圧倒的に貴重かつ有意義である事が多い。
「本との出会い」は「他者との出会い」に近似しており、本屋に出掛けるという事は「偶然性による自己の拡張」という快楽をもたらしてくれる大切な行為となる。
というわけで、本屋をうろついていた所、大前研一が『さらばアメリカ』という本を上梓しているのを発見した。
手に取ってみると、日本がいかにアメリカから脱却しなければならないかについて書かれているようであり、であるならSAPIO誌上の「国防論」もあのような陳腐なものになるはずがないのに、媒体によって論旨を変えるのが大前流なのかなと思いながら、本を閉じ書棚に戻してその場を離れた。
しばらく本屋の中を徘徊して私が購入したのは、『新しい資本主義』原丈人著(PHP新書)であった。

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2009年4月17日 (金)

「週刊新潮」的「文学的妄想力」は、現在のジャーナリズムに必要か?2

同じ号に『高橋洋一教授の「窃盗報道が少ない」と怒る「植草元教授」』なる記事が掲載されている。
早速、植草一秀のブログを閲覧したところ、そこに「週刊新潮」の「文学的妄想力」の秘密(笑)が開示されているのを発見した。
「週刊新潮」は、当該記事を書くにあたって、7項目に渡る質問を植草に送付したらしい。
その詳細については植草一秀のブログによって確認していただきたいが、その返答に相当する大部分についてはブログ中で既に開示されているものだ。にも関わらず再質問するのは何故か?
新潮の記者に日本語読解力の著しい欠陥があるとは思えないので、推測するにこの記者は「文学的妄想力」に突き動かされた「何か」を確認したかったに違いないと思われる。
「何か」とは何か?
「妄想」によって膨らみきった記者自身の「予断」であり「邪推」である。その「予断・邪推」を裏付けんが為の再質問という訳だろう。
だが、この記者は植草に対する直接取材に失敗している。にも関わらず、記事は堂々と掲載されている。
巻末に取材に関する長大な反省文?を掲載している同じ号でこの始末だ。
後は推して知るべし。
新潮社は、週刊誌出版などという「文学的妄想」に似つかわしくない仕事はもうやめたらいかがだろう(笑)

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「週刊新潮」的な「文学的妄想力」は、現在のジャーナリズムに必要か?1

かつて私は不良学生として若干文学をかじった事もあるので、創作をものするには「文学的妄想力」とでも呼ぶべきものが必要である事を知らない訳ではない。
そして、良かれ悪しかれそうした「妄想」は現実世界で起こった「事件」に触発されて形成される事が多いのも事実であり、「妄想」を文学として昇華するか、社会一般に垂れ流して多大な迷惑をかけるかも実際問題紙一重である事も確かだろう。
そうした事を踏まえた上で、4/23号の『「週刊新潮」はこうして「ニセ実行犯」に騙された』なる記事を読むと、詐話師の「文学的妄想力」の方が「週刊新潮」のそれよりも遥かに優っている事に笑いを禁じ得ない。
「週刊新潮」にあるのは最早、「文学的妄想」が暴走する恥晒しエピソードすら商売に結びつけようとするただでは転ぶまいとする「商魂」でしかない。
「騙される」「陥れられる」事が商売になるのなら、「オレオレ詐欺」に騙された老人らの手記でも募って、『老人達はこうして騙された』なる題名の本でも作ってやり、犯罪被害者の一助にでもしてあげたらどうなのか。
今後とも「週刊新潮」には、「文学的構想力」ではなく「文学的妄想力」によって、妄想たくましい虚報を連発する事を期待してやまない(笑)
(この項つづく)

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2009年4月 8日 (水)

小学館SAPIO4/22号

SAPIOが『誰が「総理」を殺すのか!?』という特集を組んでいる。
この雑誌は、ジャーナリズムの一定以上の水準を維持しようと努力している点で、立場如何に関わらず応援したくなる数少ない商業誌の一つだ。
今回の特集の眼目は、「総理」というタイトルを冠しているものの『小沢下ろし』現象を利権マスメディアとは一線を画す形で多角的に検証しようと試みているもので、個人的にはそれほど目新しいものではないが、新聞テレビ報道を鵜呑みにするタイプの人々にはインパクトのあるものになっていると言える。
「総理」を「殺す」/「選出」する本当の主体は誰かという基本的な「問い」を起点として
1.検察権力
2.大新聞テレビ(利権マスメディア)
3.霞ヶ関官僚
4.世論調査(ポピュリスム)
5.大企業(ロビー活動)
6.フィクサー(ナベツネ)
7.(与党内)権力争い
等、多角的に読者に対して判断材料を提供しようとしている点で、切り込み方としても納得の行くものだ。
本来なら、この程度の視点は、日々の報道とは別枠で新聞が提示して然るべきなのだろうが、もはや我が国の新聞報道には何の期待もかけられない。
私たち国民は、「国民支配」の底意を持つ官僚型情報流通網の外部に立ち、俯瞰的な視点から“生活環境”全体のエコロジーを総点検すべきだろう。

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