経済・政治・国際

2015年1月21日 (水)

耐えられない世界の「演劇」臭さ

このところ「世界」で起きている「事件・事故」あるいは「経済現象」も含めて、どうにもそこから漂ってくる「演劇臭」のようなものに耐え切れそうもない。
洒落にならないのは、それらの“事象”により、実際に命を落としたり、生活を破壊されたりする方が膨大な数に上る点なのだが、
それを承知の上でなお、
「人工甘味料」のように後味の悪い「事件・事象」が次から次へと起こり/起こされ、そういうものに、たんたんと生きたいと願っているだけの多くの一般市民が巻き込まれていくことの理不尽さ、合点の行かなさというものを、誰かが指摘して口に出さなければ、
事態は益々悪化の一途をたどるしかないのではないかと思い、このようなものを書くことになる。

“世界”が、こういう『胡蝶の夢』のような事態にたちいたっているのは、いうまでもなく、世界中の人々の「生活」を置き去りにして、いい気な連中が“世界”を手玉にとりたくてとりたくて下らない無駄な足掻きだか動きだか投資だか知らないがしてみせるからだろう。

前回の、ウルグアイ大統領の演説に見たように、“世界”の支配層が達成したいと思っているだろう何事かは、市民の普通の「生活」とは、もはや殆んど何の関係もないものだ。

何の関係もないのにも関わらず、市民を「動員」したくてあるいは「共謀」させたくてたまらないがゆえに、やることなすことから「リアリティ」が喪われていく。
私たちが「リアリティショー」に吸引されるのは、自らの周囲の「現実」も、「現実に起きた事を伝えているはずのニュースの中の現実」も、あまりにも「現実感」に乏しいからに他なるまい。
だから「現実らしい現実」を求めて、「ショー化」されていようが何だろうが「ひりひりしたリアリティ」を思わず求めてしまうのである。

これは、ボードリヤールが「シミュラークル」と呼んだものと同じことだろう。

「シミュラークル」が「シミュラークル」を呼び、しかし、その過程の中で、実際に人の命が奪われたり、生活が壊されたりするために、「現実」を扱わなければならないはずの政治家や行政官僚が、責任逃れのために益々「シミュラークル」の屋上屋を重ねていくことになる。

これだけ“世界”のことを心配しているのに、実際に自分が事故にあったり病気になったりすれば、“現実”の取り返しのつかなさに応じて単に死んで行くだけなのに。
あるいは、“現世”の己れの繁栄をとことん夢見て、1%の仲間入りを果たしてみたところで、そこに欠落している“現実感”に飢餓感を覚えながら、結局は単に死んでいくだけなのに。

仏教や道教を持ち出すまでもなく、古来よりこのような“世界観”が存在していたことは、
我々の素晴らしい現在が、いかに古代よりイノベーションを達成していないかを、親切にも教えてくれる。

ただし、現在は、大勢の人間がジタバタし過ぎるため、滑稽さの度合いが著しくなっていることは確かなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月14日 (水)

文明の移動と人類の未来

いきなり、大袈裟なタイトルを思い付いてしまったが、「財」の集中が必ずしも「文明」の発展には貢献しなくなるという経験を人類は何度も経験して来たはずなのにも関わらず、「文明」の内部にはそれを解消する論理が発生しがたい(あるいは発生していても当該文明の内部においては殆んど無視される)ゆえに、「文明」は盛衰し、条件の異なる場所へ移動していくのではないかと、ふと想起したからだ。
そんなことを想起したのも、ある政治家の演説を日本語訳で読むことが出来たからだ。
『THE NEW CLASSIC』というニュースサイト(?)がその日本語訳を掲載していた。
2012年に開催されたリオ会議(国連持続可能な開発会議)におけるウルグアイのホセ・ムヒカ大統領のスピーチ。
現代の政治家による最良の形の演説がどのようなものか、私たちはこのスピーチを読むことによって知ることになるだろう。
政治業というものは、ある意味では相当困難な職業であり、企業経営者と同様に自らの責任を持つ共同体の利益を常に気に掛けていなければならず、かといって、何の理想も掲げず単なる利益共同体の代表者として利潤のみを追い求めていても、あるいは芸術家や作家等の知識人のように理念形ばかりを語っていても、政治家としての敬意も権威も得られはしない。
政治家のスピーチとは、常に現実に裏打ちされながら、同時に、現実を(現実的に)越え出ようとするパッションを秘めていなければならない。
その点において、ムヒカ大統領は、自国の置かれている現実をきちんとふまえた上で、なおかつ、世界の未来について政治家として何が言えるかを他国の首脳に考えさせるという形で過不足なく語り尽くしている。
日本の首脳にムヒカ大統領のようなスピーチをしてみせろと言っても、日本の現状がそれを許さない。
しかし、私たちは、この世界には立派な指導者がいることを知らな過ぎるし、そもそも立派な政治家の演説というものにきちんと触れた経験さえ乏しい。
私は、前回のエントリーで、我が国の首相の2015年の年頭所感なるもののキーセンテンスに言及して批判してみた。
書きながら虚しさを覚えざりを得ない我が国首相の単なる情緒的な願望の表出と、人類のあるべき未来について透徹したパースベクティブの内にとらえて具体化を促そうとするウルグアイ大統領のスピーチとを比較し、その彼我の落差を思う時、私たち日本人がどういうレベルで生きているのかについて暗澹たる思いにとらえられざるを得ないところがある。
日本の低成長とは、例えばの話だが『源治物語』を有するような日本人の一つの「文明」に対する回答なのではないかとも思うのだが、ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチに何かを刺激される日本人は、未だに層と呼べるようなボリュームで存在している可能性はあると思いながら、日本語訳を掲載させていただく。

(引用開始)
この場所にいらっしゃる全ての政府、そしてその代表の方々に感謝申し上げます。また、リオ会議に招いていただいたブラジルのジルマ・ハセフ大統領にも感謝申し上げます。
これまで素晴らしいお話をされてきたプレゼンテーターの方々にも感謝申し上げます。国を代表する者として、人類にとって必要となる国家同士の話し合いをおこなう素直な志がこの場所で表現されることを考えています。
しかし、私が抱いている厳しい疑問を述べさせて下さい。
今日の午後から、これまで議題となっていたことは持続可能な発展と世界の貧困を撲滅することでした。我々が真に抱いている問題とは、一体何なのでしょうか?現在の豊かな国々が辿ってきた発展と、その消費モデルを真似することでしょうか?
質問させてください。ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか?
呼吸をしていくための十分な酸素は残るでしょうか?同じことを別の質問で言うならば、西洋の豊かな社会がおこなっている“傲慢な”消費を世界の70から80億人もの人々がおこなうための資源は、この地球上に存在するのでしょうか?それは本当に可能でしょうか?
あるいは、異なる議論が求められるのでしょうか?
なぜ我々は、このような社会をつくってしまったのでしょうか?
市場経済の子どもたち、資本主義の子どもたち、すなわち私たちが間違いなくこの無限ともいえる消費と発展を求める社会をつくり出してきたのです。市場経済が市場社会を生み出し、このグローバリゼーションが世界の果てまで資源を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
これほどまでに残酷な競争によって成り立っている消費社会の中で、「みんなで世界を良くしていこう」という共存共栄の考え方はできるでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを述べるのは、リオ会議の重要性を批判するためではありません。むしろ、その反対です。我々の前に立っている巨大な危機は、環境問題ではないのです。それは、政治的な危機なのです。
現代においては、人類がつくりだしたこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、この消費社会によって人類はコントロールされているのです。私たちは発展すべく生まれてきたわけではありません。幸せになるため、この地球にやってきたのです。人生は短く、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命より高価なものは存在しません。
常軌を逸した消費は世界を破壊しており、高価な商品やライフスタイルが人々の人生を破滅させているのです。
社会は消費という歯車によって回っており、我々はひたすら早く、そして大量の消費を求められます。もしも消費がストップするならば、経済が麻痺して、そうすれば不況の魔物が我々の前に現れるのです。
常軌を逸した消費を続けるには、商品の寿命を縮めて、出来る限り多く売る必要があります。つまり、10万時間持つ電球をつけれるのに1千時間しか持たない電球しか販売できない社会にいるのです。それほど長く持つ電球は、市場社会には良くないのでつくることはできないのです。人々がより働くため、そしてより販売するために「使い捨ての社会」を続ける必要があるのです。悪循環にお気づきでしょうか?
これはまぎれもなく政治問題ですし、我々はこの問題を〈異なる解決方法〉(強調:引用者)によって世界を導く必要があるのです。石器時代に戻れとは言っていません。市場を再びコントロールする必要があると言っているのです。私の考えでは、これは政治問題なのです。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。
「貧乏な人とは、少ししか持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
この言葉は、私たちの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源ではないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということです。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界で最も美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さな国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車などのリボ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自らにこんな質問を投げかけます。
それが人類の運命なのか?
私の言っていることはとてもシンプルなものです。発展は幸福を阻害するものであってはなりません。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。幸福が私たちにもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。
(引用、終了)

このようなスピーチに触れて、私はなぜ「文明の移動」などということに思いを馳せてしまったのか。
だが、「ある理想への距離」というものを考えてみると、あれだく栄えていた「文明」がなぜ消滅し、まさに「文明の中心」と思われていた所から見れば、「辺境の地」のようなところで「文明」が発生したりするのも、なるほどと頷ける感じがしたのだ。

少なくとも、今の“繁栄”は、貧困の撲滅のためだったのか?
それとも、ムヒカ大統領の言う「政治的な」動機、政治的虚栄心を満たすために成し遂げられたものだったのか?
さて、仮に後者だとして、何らかの「幸福」は手に出来たのか?
むしろ、「幸福」とはどのようなものなのかが忘れ去られ、分からなくなってしまっただけではないのか。
今や私たちは「バベルの塔」ならぬ「バベルの蟻の巣」の住人でしかないのではないか?
造り上げられた「繁栄」の状態が、「あるイデア」なり「幸福の形」なりから、距離的に遠いものから順番にたおれて消滅するものを、私たちは「文明」と呼んでいるだけではないのか?

こう考えてみると、日本とは、「世界の中心で再び輝く」どころか、なぜ今の繁栄があるのか自分たち自身が良く理解していないような虚飾に満ちた国として、最速で消滅する国家の候補でしかないのではないか。
どうするのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月 1日 (木)

コンプレックスの塊は、あるいはそうであるがゆえに、“政治”のW杯開催を夢見るのか?

何事もトップを狙う意気込みは大事だろう。当然のことだ。
誰だってトップを狙っている。
当たり前だ。
こういうことを「言わずもがな」という。
「言わずもがな」とは、口語的な表現にするなら「言うまでもない」ということになるし、「口にする必要もない」ということだし、もっとくだけた言い方をするなら「言わせんな」ということだろう。
似たようなニュアンスの表現として「言っても仕方がない(しょーがない)」「言ったところでどうにもならない」というような言い方があるが、このような言い方をしてしまうと、逆にネガティブなニュアンスが濃くなるのは確かだろう。
日本古来よりある謙遜と謙譲の文化が、ネガティブな方向に向き過ぎると、実際実力以上に引いてしまいがちだという傾向は確かにあるのだが、
それもこれも、正確な自己認識があっての賜物であり、自己を客体化して評価/批評するという分析的過程を経た上でなければ、ポジティブな自己主張も、「謙遜」という文化なき人々には必要以上にネガティブに見えるかも知れない高度に洗練されたイデアから照らし返された峻厳な自己評価たるべき言も、たちまち滑稽な夢想や懈怠心の表出に堕するばかりとなる。
「言うまでもない」内心の希望と目標を、虚仮脅かしのような自己認識によって「実現可能」であるかのように吹聴してまわり、かえってチームメイトをこわばらせ、自らの属する集団を無様な敗退に導いた無惨なバカがいたことを私はこのブログにも書いたはずだが、それを遥かに上回る能天気にもほどがある人物が、我が国の内閣総理大臣を務めているのだとすれば、
その周囲だが下だか上だか横だか知らないが、
いずれにせよ、広い意味における共同体の一員である私たちはどうすれば良いのか、サッカー日本代表のメンバーらが見せたのと同じような奇妙なこわばりやこだわりや戸惑いが、辺り一面に瀰漫していくのは避けがたいのではなかろうか。
我が国の内閣総理大臣安倍晋三は、(NHKなるふざけた機関の報道によれば)年頭の所信表明にあたって「世界の中心で輝く国にする」とか何とか、のたまったのか、のたまうかするつもりらしい。
まず、「世界の中心」なる言葉だが、この言葉、地球が平面であると信じられていた時代ならいざしらず、少なくとも現在では比喩表現としてしか通用しない言葉であるはずなのだが、一国の内閣総理大臣が口にする言葉としていかがなものか。
FIFAのランキングが何位だったのかもう忘れてしまったが、覚えられないほど低いランキングの国の選手に「見ていてくれ、オレタチは優勝するつもりでやる」とか何とか虚勢を張られても気の利いた反応することすら困難なように、唐突に「世界の中心」なる言葉を持ち出されて戸惑わずにいられる日本国民がどれだけいることだろう。
目標にも願望にも鼓舞にもなっていない、ただ徒らに空しい虚勢の見本のような表現。
ポテンシャルがあるということと、今現在がどうであるかということとは、全く別であるのに、リーダーやリーダー格の人物が「オレタチは優勝できる、優勝できるぞ」と繰り返し叫び立てても、メンバーのモチベーション向上につながるはずもないことは、普通の常識さえあれば誰でも分かるはずだろう。
そういう誰でも分かるはずのことを、あえて分からない振りをして「仰るとおり、仰るとおり」と称賛してやまないような人間が確かに必ず少数ながらも湧いて出ることも確かだろうが、そういう人物がどういう類いの人物か、これももはや言うまでもない/多言を要しないことだ。
「一体全体どうなっているんだ、何がどうなってるんだ。で、オレタチにどうしろってんだ」
常に具体性に欠けた指示を出すリーダーを持ってしまった組織のメンバーというのは、まずそこから考え始めなければならない。
そもそも「世界の中心」などというものは、曖昧な上に、相対評価の最たるものであり、自負自尊、自己評価だけでは一切確定もしないし完結もしない。
まだしも「優勝」というものなら、ルールの中で明確に定められて間違いなくあるものなのだから、「優勝したい」という願望を口にすることはどんな弱小チームにも許されていることだが、「世界の中心になりたい」なる願望は、あらゆる知性をかなぐり捨てることで、初めて口にできることかも知れない、とりわけ現代にあっては。
その上で「輝く」というのだ。
「輝く」というのも、間違いなく比喩表現でしかないのだが、殆んど意味をなしていない。
なるほど、競技選手が優勝して表彰台のてっぺんに上がった姿は“輝かしい”。しかし、それは、「表彰」することを前提とした一定の厳密なルールの中で競い合った結果だからであり、世にそのような「競技世界」などというものはそうそうあるものではない。
そうそうあるものではないがゆえに、「競技世界」に似せた顕彰制度を設けている例は数多あるが、それらは主として個々人またはそれを準じるものを讃えて、ひいては共同体なり組織なりの活性化のために設けられているものであり、「輝く国」なる曖昧模糊とした自己満足の比喩表現とはまったく異なる次元でなされているものだ。

年頭にあたって、こんな子どもに諭すようなことを、いちいち記している自分が虚しくなってくるが、とにもかくにも、我が国の総理大臣が、そのような言葉で(限りなく好意的に言えば)国民を鼓舞しようというのだから、それに対する一国民の反応を痕跡と残すことにも多少の意味はあるだろうと思い、こうして記しているのである。

一国の首相の言葉というのは、「個人の見解を述べたまでだ」では済まないところがあるからこそ、多くの者が寄ってたかって「総理の言葉」に関与するのだが、いったい一国民にこのような反応を引き起こさせてしまうこの国の機構はいかなることになっているのか。
はなはだ心許ないと言わなければならない。


「そんなことを言っている口しか達者のものがない連中が絶対に優勝などすることなどありっこがないように、そんなことを言ってしまう総理大臣を有している国が絶対に“世界の中心”になることも“輝く”こともないない、あり得ない」

「恥はかき捨て、世は情け」(笑)とは、傍若無人な輩の言い訳に過ぎず、堅気ではないがゆえに「吐く」ことの可能だった「いきがり」の表現だろう。
かりにも一国の内閣総理大臣ともあろうものが、それと同等のレベルから同等の捨て台詞のようなものを吐いているようでは、むしろ、墜落の加速度はいやましに増すだけだろう。

〈もう別の道を模索すべきだ〉
〈もう別の道を模索すべきなんだ〉

私は、昨年の大晦日にあたる昨日、『晴耕雨読』というブログ系サイトのコメント欄に以下のようなコメントをした。
日本人として日本に生きることが恥ずかしくないように、以下をもって不特定多数(不特定少数?)の皆様への年頭のご挨拶にかえさせていただきたい。


(以下、転載。一部改)

強権と怯懦とは、矛と楯の関係であり、彼らは権力を振り回しながら振り回された権力にみずから怯え、自己矛盾を産出し、産出した自己矛盾に溺れながら解決不能という毒に麻痺し、周囲を凶暴な圧力の中に捲き込みながら破産と破滅へと向かう。
こういう悲惨にして滑稽な悪循環に私たちが捲き込まれなけれならない“義理”は一切ないのだが、人々の怠惰と脆弱さとが、反知性的な集団主義の洪水となって瞬く間に押し寄せ、私たちの足元を掬い、私たちを押し流してしまうかも知れない。
そんなときでありながらもなお、このような局面に私たちがあるということに気付いている人はまだごくわずかであり、貧困あるいは流離という不運に見舞われた人たちだけが、よく私たちにあるしゅの「知」を授けようとするだろう。
だから私たちは、彼らに導かれるようにして、「知的活動」の方へと強く赴かなければならない。
泡を喰う悲惨な滑稽さに不意を突かれて靴底の泥濘に足を滑らせないよう細心の注意をはらいながらも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月30日 (火)

フィギュア町田選手の突然の引退発表に驚く

何があったのだろう。
先日の演技を観て、羽生選手よりも、技にミスは多かったものの超越性への志向を感じさせてくれた町田選手が突然の引退発表をしたという。
前回のグランプリファイナルにおいては卒論仕上げとの兼ね合いで、万全の体調を維持するのが難しかったとのことで、今後は院に進学し、スポーツマネージメントを学びたい意向との事だが、
そういう諸々を重ね合わせて考えてみると、
自己の身体を用いて、何かを表現することよりも、表現のため、あるいは日本のスポーツの在り方のために、学問的なアプローチにより、何かを表現/改革していく長期戦の方を採ったということかも知れない。
もちろん、これは、私が傍目から見た憶測の類いに過ぎない。
傍目から見た憶測の類いには過ぎないが、しかし、フィギュアスケート界というものが、メディア的/広告的/商業的に注目されればされるほど、選手個々の身の処し方が異常に難しいものになっているのであろうことは、外野からみても容易に推察できるような気がする。
いったい私たち日本人というのは、フィギュアスケートに限らず、傑出した人々が、どこか痛々しい努力だか忍耐だかを強いられている姿を見るのがそんなに好きなのだろうか。
私は、そうは思わないし、そう思いたくもない。
町田選手が「崇高」と呼んだようなプログラム、ああいうものは、何か痛々しい努力の末に完成するものではないだろう。
もちろん、フィギュアスケートがスポーツである限り、技の完成度、卓越性が要求されるのは当然のことだ。
けれども、フィギュアスケートというジャンルの可能性を追求するという意味においては、単にスポーツというだけにはとどまらない要素が満載されているのがこのジャンルの魅力でもあってみれば、可能性の追求のバリエーションもまた豊富な形があっても良いものだろう。
私は、米国のプロフィギュアのショーの実態を全く知らないような人間に過ぎないが、フィギュアスケートの持つ可能性というものを考えれば、必ずしも米国的なものにならずとも構わない、しかし、プロの領域というものがあり得ても良いのではないかと思う。
町田選手という人は、そういうことも視野に入れているのかどうか分からないが、「高校野球」や「箱根駅伝」等をキラーコンテンツにしてしまうような無能でアイデアが枯渇している上に堕落し腐敗している日本のメディア界の食い物にされ切ってしまわないうちに、フィギュアスケートの有する可能性を良く知る人々が、新たなアイデアによって関与していくことは、必要なことだろうと思っている。

私たちは、日本国内の全産業中、国際評価が最も低い業界はメディア業界(記者クラブメディア界)だということを、もっともっと強く意識して然るべきだろう。

ああいう連中に、情報を扱わせている屈辱に、私たち日本人は、ネトウヨと呼ばれている人々のようにおかしな方向からではなく、もっともっと憤慨しても良いはずなのだ。

今、日本のメディア業界に巣食う大半の連中は「たかり」「ゆすり」「すり」「置き引き」「横取り」「盗っ人」などと呼称される連中と同等の人間ばかりである。

このような連中と傑出した人々が付き合わなくても、傑出した人々に関する「まともな情報」が「普通の情報」として欲する者には手に入るような社会環境を作らなくてはならない。

そういう社会環境が完成されて初めて日本は、次のステージに移行することが可能になるのだろうが、現実は、「記者クラブメディア」のようなカルテルを〈解体〉ではなく〈懐中〉に入れることで、社会の〈退嬰〉を何かからの〈脱却〉だと信じ込める程度のズレた人間が権力を持ってしまっているのだから事は厄介なのだ。

町田選手のような周りが見え、事態を把握できるような人物が、傍目からは不可解にも思えるような行動を採るのは、
したがって尋常ならざる環境に対処する在り方としては、むしろ、オーソドキシーに満ちたものと評価すべきなのだろう。

注目すべきスポーツの環境ばかりではない、政治の世界もまた然りであることを、私たちは承知しているべきなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月14日 (日)

羽生選手、優勝おめでとう

万全な体調ではないかも知れない中、見事に優勝を勝ち取った羽生選手に敬意を表したいとおもいます。
あれだけの体験をしながらも、まさに不屈の精神で世界一を勝ち取る方の勁さというものを目の当たりにし、感服しました。

ところで、今回、競技スポーツを越えた超越性への志向を感じさせてくれたのは、町田選手でした。
彼も体調面に優れないところがあったようで、何度となくジャンプを失敗してしまいましたが、本人が言う通り「崇高なプログラム」…そこへ達しようとする競技選手を観られたことは大変貴重な経験でした。

今、選挙報道が始まりました。
アイスリンクの上で人間の身体の表現する崇高な動きを鑑賞させていただいてから、下卑た地べたの闘争の結果に一喜一憂しなければならない感触はえもいわれぬものがあります。
これが一方の人間の現実なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月13日 (土)

母さん、ボクのログイン画面はどこに行ったんでしょうね。

今ここで、こうやって書き込みが出来ていることからすれば、ログイン機能が喪われているわけではなさそうなのです。
けれども、自分が開設したブログの編集画面からログイン出来ないなんて。
母さん、ボクは、誰かの秘密でも、いつの間にか握ってしまったんでしょうかね?(笑)
そりゃ、誰にだって秘密にしておきたいことなどいくらでもありますよ。
ボクにも、母さんにでさえ知られたくない秘密なんて、いくらでもあります。
でも、母さん、秘密などというものは、けっきょく暗黙の了解のうちに成り立たせるしかないもんだとおもうのです。
ニフティ・ココログの利用規約を見てみてくださいよ。
「個人情報」を聞いたこともない会社に提供しますと書いてあります。
母さん、ボクは、それに同意して、そのかわりにこのブログを利用できているんです。
でも、ボクの「個人情報」は、「秘密」にはちがいないはずなんです、そう思いませんか?母さん。
「秘密」などというものは、能力のある者、権限のある者、それに悪意のある者にとっては、筒抜けのはずなんです。
だから、「秘密」なんてものは、バラされたら、そりゃ、いろいろ支障は生じるけれども、
バラされて完全に面目を喪うような「秘密」、そんな「秘密」を持ってしまっているなら、それは作ってしまった方に非があるといえるんじゃないでしょうか。
母さん、ボクは、母さんの期待にこたえられない、ダメで悪い子なので、母さんにはとてもではないけれど言えないような恥ずかしい秘密をたくさん持ってしまいました。
もし、母さんが、ボクのことが気になり、ボクの部屋をあら捜しした上、ボクの秘密をたくさん暴いてしまったとしても、それはボクの自業自得です。
母さんにバレて、面目を喪うような秘密を作ってしまったボクがいけないんです。そのくらい、分かっていますよ。
でも、母さん、ボクは母さんを信じていますから、母さんが仮にボクの秘密を握ったとしても、母さんならそのことも内緒にして、ただ静かにボクのダメなところをなくすよう導いてくれるのではないかとおもっているのです。
そういう信頼関係がなければ、親子関係など続けていても意味がないですよね。
母さん、
それにしても、ボクのログイン画面はどこに行ってしまったんでしょうね?
ボクは今言ったとおり、人様の「秘密」などに特段の興味も嗜好も残念ながら持ち合わせてはいないんです。
「秘密」など詮索しなくても、「やっていること、言っていること」のレベルを見れば、その人の価値など、いくらでも判断できますよね。
母さん、母さんがボクの「秘密」をあれこれ捜さないのは、母さんがボクについて、もう諦めている、いえ、達観しているからかなともおもうのですが、ボクは母さんの子ですから、どんなに恥ずかしい秘密を持ってしまったとしても、ひどい、下卑た子にはなりませんよ。
それが分かっているからこそ、“ちゃんと”放っておいてくれているのかも知れませんね。

それにしても、母さん、世の中には、人様に嫌がらせをしてほくそ笑むような人間が、案外ほんとにいるんだってこと、最近になってよぉく分かって来ました。
遅ればせながら、母さんが、ボクのことを、そういう人間にだけはならないようにと育ててくれたことに感謝しています。

長くなりました。

もう、あまり言葉を交わすこともなくなりましたが、こんな「秘密」のブログですから、心情の吐露もできました。

母さん、
母さんの知らないところで、世界はどんどん世知辛くなってきていますよ。

くれぐれも、おからだには、十分、お気をつけてお過ごしくださいますよう。

では、また。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月 9日 (火)

「誰がためのオリンピックなのか?」という問いがリアリティを帯びていることを認めたIOC

日本人の死にたくなるような能天気さを置き去りにして、IOCは「誰がためのオリンピックなのか?」という問いが、リアリティを帯びていることを認めた。
これは、賢明な判断だと思う。
国威発揚と商業主義との間で揺れてきた、あるいは両者の相乗作用で、スペクタクル性のみが注目され、開催地負担がただならぬところまで肥大化していたオリンピックは、
市民の中に
「誰がためのオリンピックなのか?」
という根本的な問いを目覚めさせた。
今、市民スポーツの中で、静かながらも持続的なブームになっているのは、ランニングでありジョギングだろう。
「誰がためのサッカーW杯か」という問い掛け同様、土建業界と巨大メディア業界のためにひたすら奉仕でもしているかのような巨額スペクタクルに不審の目を向ける市民が世界中に増殖している証左だと言える。
たしかに、オリンピックにしてもW杯にしても、人類の肉体が記録してきた数値やパフォーマンスの壁を突き破ろうとして繰り広げられる祭典を、単に観客という立場であっても参加したり目撃したりするのは得難い体験になり得るというのは確かなところだろう。
実際、自分自身、若い頃はスポーツをするのも観るのも好きだったし、壮年に達してしまった今でもスポーツ観戦は趣味の範疇にある。
そういうスポーツに親和的な人間であってすら、近年の巨大メディアを介した競技スポーツのバカ騒ぎには、正直うんざりさせられるものがある。

「たかり」

汚い言葉だが、その一言をやはり、想起せざるを得ない。

長いストイックな時間なしには存在し得ない選手の周囲に群がり、はしゃぎ回る「たかり」の連中。
ともすれば「選手」そのものよりも目立とうとしているかのような「たかり」の連中。
目に見える「たかり」の背後には目に見えない同じような「たかり」連中が数多存在することをいやが上でも想像させられざるを得ない常軌を逸した喧騒。

何なんだろう、この人たちは。

「誰がための祭典なのか?」

するスポーツであれ、観るスポーツであれ、スポーツというもの、それ自体を楽しみたい人たちに、必ずそう思わせるような派生要素の数々。

CMを見せられているのか番組本編を見ているのか分からない、TV番組と変わらぬ本末転倒性。
そういう倒錯の行き着く果ては「公共性」の破綻だ。

「公共の財」たる物資と生身の選手に群がる「たかり」どもの祭典。

カネのためなら何でもやる腐敗した巨大メディアの空騒ぎ。

これで、うんざりするなという方が無理がある。

能天気な日本人は、東京のオリンピックを決めたあと、今度は冬季オリンピックに札幌が名乗りを上げるのだという。
それを手放しで喜んでみせる人たち。
彼ら巨大メディア他、手放しで喜んでいる連中には、それなりの理由があるんだよ。
いい加減、気付きましょうよ。

スポーツが好きなら、お祭り騒ぎ以前に、まず、スポーツを愛そうよ。

選挙前に、わざわざこんなことを自ブログにエントリーするのも、一事が万事だと思うからだ。

IOCは、さすがにバカでも能天気でもないから、それなりの危機意識は持っていますよ。
私たち市民は、本来、IOC以上に強い危機意識を持っていなければならないはずなのに、日本人と来たら。

いや、本当に「日本人ときたら」なんだよね。
教育程度は高いのに、これだけ能天気な羊の群れ度を誇る集団って、世界でもかなり稀な方だよ。

「世界の中心で咲き誇る」?
頼むから、もう勘弁してくれ。

わかったわかった、そんなにお望みなら、もう毎回、オリンピックは、日本でやらせてもらえばいいよ。
日本人なら、国が破産するまで、大喜びでやり続けるからさぁ。
オーケーオーケー。これで万事丸くおさまるよ、IOCさん。

(あー、すげー、荒んでるな、オレ(笑))

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月 9日 (日)

『「残酷ショー」としてのフィギュアスケート?』

先日、私は、松谷創一郎という方がヤフー・ニュースのコラム欄に投稿した『「残酷ショー」としての高校野球』というコラムを引きながら、スポーツあるいはスポーツ選手をめぐる管理者とメディア、また観客のあり方について言及してみた。
今回のフィギュアスケートの中国グランプリにおいて、全く同様の構図が反復されてしまったことは返すがえすも残念であり、なぜ、私たちはこういう地平から自らの力で抜け出そうとしないのか、この国の国民の抱えている宿痾のようなものの根深さ、執拗さに恐怖すら覚えざるを得ない。
もっとも、「この国」などと、他人事のような言葉遣いをして客観めかしてみたところで、当然これは他人事ではない。
お前ならうまくやれるのかと言われれば、全くその自信はない。だが/しかし/そうではあっても、だ。
「こういう出来事を通じこういう認識を得た、こういう学習をした、こういう教訓を得た」ということが身にしみなければならないし、そういうことはいたるところで記録され、記憶されようとしなければならないはずだ。
そうでなければ、この手の「無駄な反復」はいつまででも執拗に繰り返されるのだし、その限りにおいてそこに反省の契機はいささかも訪れようとせず、「残酷趣味」を「良心の発露」と錯覚する人々が、これまた飽きもせず反復再生産されて行くばかりなのだから。
このままの状態が継続するなら、私たちの中の責任ある者らは、一向に危機管理など出来ないままだろうし、
私たちの中のヒーローは、精進した技それ自体のみでは評価が完結せず、人々の感情をいかに揺さぶったかという派生的要素なしには成立しないままなのだろうし、
私たちは私たちで、ヒーローに向かって「まだまだ足りない。われわれのために死んで来い、死んでみせてくれ。(死んだら英霊として奉ってあげるから)」と要求しかねないのだ。
いつでも致命的たり得る「失敗の本質」から目を逸らし続ける限り、それは強迫的に反復されざるを得ないのであり、こういうものの連鎖をどこかで断ち切る決断をしなければ、「悲惨な敗戦」もまた何度でも繰り返される可能性が高いのであり、この国の指導者らがそういう危機感を共有認識として有していないらしい様は、まさしく致命的と言える。

……ちょっと、感情が高ぶり過ぎたようなので、これもヤフー・ニュースのコラム欄に掲載された内田良という方の理知的な文章を書き写すことで冷静さを取り戻したい。
「名古屋大学院教育発達科学研究科・准教授」という肩書きを持つ氏は、その肩書きと内実の一致した活動から来る充実した筆運びにより、今度の「出来事」から浮かび上がってくる問題点を見事に指摘している。
以下、特に重要だと思われる箇所のみをピックアップさせていただくが、氏の脳震盪をめぐる記述は、スポーツ関係者にとって非常に参考になるものと思われるので、興味のある方は、全文をヤフー・ニュースによって確認されたら良いと思う。

(以下、引用開始)
『羽生選手の姿に「感動」の問題点』
この週末(11/8-9)、スポーツ医学の中核を担う「日本臨床スポーツ医学会」の学術集会が東京で開かれている。脳震盪に関する調査研究がいくつも発表され、日本のスポーツ界において、脳震盪への対応が、喫緊の課題であることを感じさせてくれる。
まさにその最中に、羽生結弦選手の事故が起きた。それは端的にいうと(脳震盪であったとすれば)その事後対応は、多くのスポーツドクターが目を疑う光景であったといってよい。
……中略……
ここで、最大の問題点は、その姿(※出場を強行しながらも幸い滑り終える事のできたこと)を、マスコミや観客、視聴者は、「感動した」「涙がでた」とたたえたことである。
……中略……
羽生選手の側には、本番をこなさなければならない事情もあるだろう。ファンの声に応えたい気持ちもあるだろう。そのことは個別の問題としておいておくとしても、どうしても気がかりなことがある。それは脳震盪に対する関心の低さと、脳震盪(の疑い)を乗り越える姿が美談化される時のスポーツ文化である。日本のスポーツ文化は、根性で危機を乗り越える場面を、拍手でもってたたえている。そこには感動の涙が溢れている。脳震盪の可能性が疑われるのであれば、どうか今回の出来事を機に、考え直してほしい。そうした「拍手」や「感動」は、選手の生命をむしろ危機に追いやる可能性があるのだということを。
(引用、終了)

氏は控えめに「スポーツ文化」という言葉を用いているが、専門家としての責任ある立場からそのような語句を選択しているだけで、私のような者からすれば、冒頭に記したように、これは日本文化全体の構造に関わる問題なのであり、厄介なことに、現代的なメディア問題が入れ子構造を形成しているのが実に煩わしい。
松谷氏がキーワードに挙げていた「リアリティショー」の構造が、私たちの陥りがちな独善に免罪符を与え、私たちを刹那の古代ローマ市民に仕立てあげる。
この入れ子構造を解きほぐし解体に導かなければ、私たちは私たちの「残酷趣味」を「良心の発露」と錯覚しながら、何者か達の無自覚な伴走者、共犯者としての生を生き続けることになってしまう。

私たちは、近代が産声を上げて以来、超越存在を持たない、あるいは諦めるかわりに、超人を求めるようになったのか。
だが、超人に救いを求めるなどということは、やはりどこかお門違いなのだ。
人が頑張っている姿を見て感動するという心の動きは当たり前のことであり、この当たり前がなくなってしまったらそれこそ大変なことではあるのだが、一方で、人の心の動きというものは、完全なフィクションであっても十分に感動できるものだということも忘れてはならないと思う。
現に、今年は、アニメの世界の雪の女王に、多くの人が感動したはずではないか。
なかなか平明な形で言い表すのは難しいが、人の心の動きはそのようなものであることをわきまえていること……この辺は一つ重要な点と言えるのではなかろうか。
「感動」という心の動きから、もう一歩先の心の動きというものがあるのではないかと想像してみること。
そんなことが、今、私たちに求められているのではなかろうか。
あるいは、相互に求め合うべきなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月 8日 (土)

中国グランプリの羽生選手

まさか、怠け者の自分が、一日に二度もブログを更新することになろうとは思わなかったが、
『羽生選手を守るために必要なこと』という記事を書いた時に感じていたあるしゅの危惧が、まさか現実のものになろうとは、さすがに思いもよらなかった。
だが、しかし、私の抱いた危惧は、予想だにしない形で現実のものになってしまったということになる。

羽生選手が、今日(11/8)の中国グランブリで、中国選手と事前練習時に衝突、流血にまでいたる大ダメージを負ってしまった。
それでも、どうやら本人の強い意志によって出場は強行されたのだ。
これを、いったい、どう受け止めれば良いのか。
もちろん、世界一になるということは、常人には思いも及ばぬ修羅の道をかいくぐらねばならないこともあるということを、私のような怠け者であってさえ、知らぬとは言わない。

しかし、とあえて言わなければならないし、また、周囲の人間も、棄権させるという勇断を下すべきケースだった。
私たちは、万全の態勢で臨む選手の超人的な演技を観て、その演技にいたる苦難の道も当然感じとっている。逆に、それを感じ取れない者はスポーツを観る資格はないとさえ言える。
それは、頭部に怪我を負いながらも試合に出場するよりも、遥かに苦痛に満ちたものかも知れない。
だから、本人は、「このぐらいの怪我がなんだ、ボクはもっと辛い練習に耐えて来たんだ」…そういう気持ち、そういう自負を表現したくてたまらなくなってしまったのかも知れない。
だが、そうといえども、彼は守られるべきだった。守られる必要があった。
「今、あえて無理をする必要はない場合もある」のだということを、誰かが教えてやるべきだった。

彼の選択は、試合を棄権するつもりだった中国選手のみならず、ショートで優位に立っていたロシア選手にも徒らなプレッシャーを与えてしまったし、あえて言えばとても失礼な振る舞いになってしまった。

彼の身にオーラのように漂う「崇高さ」というものを、私はTV越しながら、強く感じ取っていた。
しかし、その「崇高さ」というものを彼も、また周囲の人間も、「守り」「護る」べきだった。

彼の周囲に、彼を守り、かつ導く者が存在しないこと。
それが、何の運命の悪戯だろう、まさに「出来事」として、「衝撃的な衝突」として、表出されてしまったのである。

「崇高さ」の「悲劇」への反転が、これほど生々しい形では起こってほしくはなかったのだが、その杞憂としての予感が的中してしまったことに、何かいたたまれないものを感じざるを得ない。
何事もなく、あっけらかんと復活してくれるなら、それに越したことはない。

だが、彼の「崇高さ」を制御できるだけの人間が、彼の周囲にいないらしい環境は、継続するのだろう。

なんとかならないものか。
中国のスケート会場を覆う、日本語の企業宣伝と、これみよがしに展示されたクルマ。
それがまた、会場全体を覆うグロテスクさに拍車をかけていた。

もう、いい加減にしてほしいな、日本。

最終的には、そういうところに、やはり結論は行く。
かなり、うんざりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰がための「日本銀行」なのか?

11/8のNHKなる(いかがわしい自称公共の)TV局が次のような形で情報を流布している。
(引用開始)
日銀が決めた追加の金融緩和をきっかけに東京株式市場で日経平均株価が大幅に値上がりした先週、海外の投資家が株式を買った額は売った額をおよそ5360億円上回って、ことし最大のいわゆる「買い越し」になったことが分かりました。
(引用中断)

ここまでは私のような株式などとは縁のない素人にも良く分かる。
誰がどう見たって上がるのは分かっているのだから、元手のある者は買い増しに走るに決まっている。今や、東京株式市場においては外国人株主の比率の方が高いらしいのだから、集計を取れば「買い越し」になっているのはある意味当然だろう。
ところが一方で、次のような情報も流している。
(引用開始)
一方で、国内の個人投資家は、株を売った額のほうが買った額を8200億円余り上回る「売り越し」で、海外投資家が先週の株価上昇の要因だったことを示しています。
(引用終わり)
この後、ニュースは、「市場関係者」とやらのどうでも良い“分析”を垂れ流すのだが、そんなものはいちいち相手にしないとして、さてこの情報をどう見れば良いのか。
まず、文字になってみると、おかしな情報の出し方である。
5360億円「買い越し」したのは「海外の投資家」。8200億円「売り越し」したのは「国内の個人投資家」。
海外は、「個人・機関」合わせてなのか?曖昧過ぎて判断がつかない。国内の「個人」投資家が8200億円も売り越したなら、国内の「機関」投資家は、いったい幾らほど買い越しているというのか。(なぜ、そこは情報として開示しないのか)
こんなことを調べるのに、いちいち他メディアにあたってみるのもバカバカしいのでやらないが、まず、こういう曖昧かつ恣意的な情報の出し方の異常さ、異様さというものを指摘しておきたい。
次に素人判断として判然としないのが、「国内の個人投資家」の「売り越し」という現象だ。
週末になって株価の方は伸び悩んだようだから、国内の投資家は、高値と思われた時点で一気に売りに転じたのか。
だとするなら、いかにも堪え性のない判断ではなかろうか。政府・日銀が、金融の緩和どころか年金資金も直接株式市場に注ぎ込んでバックアップしますよと言っているのに、国内の個人投資家の余裕の無さは、奇妙にも見える。
もっともらしい「市場関係者」とやらの解説も加えるのなら、素人が当然疑問に思うであろうこのような点について、それなりの見方を述べるべきなのだろうが、その手の責任感など今や日本のメディアには皆無のようだ。
出したい情報のみを曖昧だろうが細切れだろうが小出しだろうがとりあえず出しておく、「解説」に見せ掛けた誘導を「専門家」や「関係者」の弁と称して一方的に垂れ流しておく…各方面から、せめてバランスに配慮せよと散々指摘され続けているはずなのに、改善しようとする気配すら見られない。
記憶が曖昧だが、フィナンシャルタイムズだかロイターだかは、日本の大企業の内部留保にも触れて、日本の金融政策全般に対する見方を示していたが、国内メディアにとって、それはどうやらタブーのようだ。
日本のメディアもメディアだが、いったい「日銀」という組織は誰のために何をしているのか。
日銀副総裁を務めたこともあるという岩田一政という人物は、「日経」のインタビューに答えて次のように述べている。
(引用開始…11/8日本経済新聞)
最も良いタイミングだった。……
米量的緩和の終了後も日銀から資金供給が続くとのメッセージも、世界の金融市場に送った。……
緩和の出口に差し掛かった際、日銀が財務体質の悪化を危ぶみ、引き締めが遅れる恐れもある。あらかじめ政府と損益の配分を決めておく必要がある。
(引用終了)
ある意味で、驚くべきと言いたくなるような素直な受け答えではないだろうか。
アメリカの量的緩和終了後に、国際金融資本がとまどわぬよう、引き続き日銀から資金供給をしますと…。
いざというときには、日本国民に応分の負担を担わせる(つけまわしができる)よう日本政府と(国民の与り知らないところで)話しておけよと…。
平気でそうしゃべっているように受け取れる。
素人判断ながらも、NHKと日経の情報をあわせると、いかに国内の個人投資家が日本政府及び日銀を信用していないかが見えて来そうだし、それ以上にいかに政府・日銀というものが一般国民など眼中にない場所で動いているかが見えて来そうだ。

日銀や年金の資金は、国内株式市場の「買い支え」に使われる…。
市中銀行を介した日銀の資金は、実体経済の中には流れて来ない…。
それで、どうやってデフレを克服しようというのか。
日銀の親玉が、物価を上げるぞ上げるぞと、どこかのカルト宗教の教祖紛いの縁起でもない念仏を唱えていて、それでどうやって国民のデフレマインドを解消しようというのか。
理解不能だ。
「物価が上がる」と言われれば、何%かに関係なく思わず身構えるのが庶民心理というものだし、それはどこから見ても正当な防御姿勢である。
どこの新聞だったか、これから、日銀から支給された資金と日銀によって演出されたドル高を背景にして、外資が買収(敵対的TOB)という形で攻勢を強めてくるかも知れないとの観測を書いているところがあった。
さもありなんという気がする。
いったい日銀という組織はどこを向いているのか。
「日本銀行」という名前の銀行は、「誰がための銀行だ」と言えば良いのか?
「金融緩和」という名前の「資金供給」は誰に向かってなされているのか?
そもそも黒田なるあの日銀の総裁の神経は尋常に機能しているのか?
素人が簡単に検討を加えただけでも、この分かりやすさ、このいかがわしさなのだから、専門家と称する連中は大方お見通しのはずだろう。
にもかかわらず、すっとぼけた/調子外れの/的を外した解説を平然としてみせては、一般的国民を煙に巻いているのである。
国内の「個人」投資家とやらが、信託の形が多いのか自前でやっているのか知らないが、大怪我を負わない内にあっという間に売り越しに転じているのは(それも姑息と言えば姑息だが)、当局の信用ならなさを加味すれば当然の反応なのだろう。
このようなまるで信用に値しない「システム」に取り囲まれて私たちはどうすれば良いのだろうか。
やはり、非貨幣部門の取引を活発化するのが、最も手っ取り早そうだ。
取引に「貨幣」を介在させるいがい能のない連中は、静かに静かに見放されて行くのだ、かわいそうに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧